Vol. 2 (2017年9月発行)
──松井さんの研究を紹介していただけませんか?
言語学の基本的な考え方の一つに「対立」があります。
例えば、日本語では、「か」と「が」という言葉では意味の違いが出ます(例:「蚊」と「蛾」)。こんなふうに、意味の違いが生じるような音の区別を言語学では「対立」と呼びます。
私が興味を持っているのは、その対立がどうなっているかということや、特定の状況によって対立が消えたり、弱くなるのは何故かということです。こういった現象の背後にある、話し手の調音のメカニズムと、聞き手の知覚のメカニズムに特に関心を持っています。
扱っている言語は、大学院までは主にロシア語だったのですが、今は日本語や英語にも広げています。
──ご研究のきっかけは?
大学生の時にロシア語を勉強したのですが、ロシア語には、「語末に有声音が来た時に、無声化する」というとても有名な発音規則があります。例えば、ロシア語では、草原のことを”луг”/lug/と言います。この語の語末の有声音は、無声化します。その無声化の結果、何が起こるのかといいますと、”лук”/luk/(ネギ)という別の意味の語と同音異義語になってしまうと言われているのです。ドイツ語やオランダ語にも同様の規則がありますね。簡単に言うと、このように、ある条件下で音の区別が失われてしまうという現象を言語学では「中和」と呼びます。
その「中和」ですが、ロシア語の教科書では、有声音だったものが無声音にバチッとスイッチを切り替えるみたいに変わってしまうと書かれていることが多いです。しかし実際には、そうではないという研究があることを知り、卒論でその問題に取り組みました。
そのことがきっかけで、実は教科書に書いてあることは必ずしも正しいわけではないといいますか、もう少し自分で調べてみると、教科書に書いてあることとは違う事実が見えてくるというようなことを体験したんです。
──いまは、国語研に移られてロシア語以外にも取り組んでいますね。
そうですね。1つの言語を見るだけではなく他の言語と対照するという視点は、国語研に来てから開花したと思います。例えば、ロシア語母語話者と英語母語話者の知覚のパターンを比較しているのですが、母語が違うと聞き方に違いがあるというところも見えてきたり、逆に母語は違うけれども、同じようなパターンを示すというところも出てきたりして面白いなと感じます。
また最近は、窪薗先生の「対照言語学の観点から見た日本語の音声と文法」プロジェクトの一環として、類型論的観点から見た日本語のプロソディー(アクセントとイントネーション)の対立・中和の研究を進めています。前半にお話ししたロシア語の無声化の問題と、日本語のプロソディーの問題は、一見まったく関係がないように見えるかもしれませんが、両者は根幹にある言語理論のところで、重要なつながりがあるんです。
──最近面白いと思うことを。
「現代」ロシア語とか「現代」日本語といっても、時間軸に沿った言語の変化も進んでいます。変化の途中である日突然音が変化するわけではなくて、順番に変化していくと思いますが、その過程がどうなってるかという問題と、私が今までやってきた対立がある環境でなくなってしまうという問題の接点がどうなっているのか。そういうところが面白いと思い、今年の4月から、取り組み始めました。
──今後の研究の予定を教えてください。
これから取り組んでみたいことは山ほどありますが、研究者としての駆け出し期にあたるポスドクの私にとって、2大プロジェクトがあります。1つは、調音音声学の装置や方法論を使いながら(前半にお話しした)無声化の調音・空気力学的な基盤を解明することです。もう1つは、(後半にお話しした)プロソディーの対立と中和を考えることです。そして、より長期的には、音韻対立の背後にある産出・知覚基盤に関する基礎研究を、子どもたちの音韻対立の獲得(発達時の、子どもの話す能力と聞き取る能力の関係やその時間的変化)や、失語症医療(なんらかの後天的な事情で、一個人の内部で話す能力や聞き取る能力が時間的に失われてゆくケース)等の方面に拡張・応用してゆく道を探ってみたいと思っています。
松井真雪
まつい まゆき●外来研究員・日本学術振興会 特別研究員(PD)。1987年岐阜県出身。東京外国語大学・広島大学大学院でロシア語・言語学・音声学を学ぶ。2015年3月に博士号取得。2015年4月から2年間、国立国語研究所プロジェクトPDフェローを経て、2017年4月より現職。第147回日本言語学会大会発表賞受賞(2014年)。