Vol. 3 (2018年3月発行)
私は中学校のころは漠然と建築家やインテリアデザイナーになろうと思って絵を描いていました。高校に入って、美術部に入ってすこし本格的に絵を始めたのですが、すぐに才能がないことがわかって、美術部をやめ、(多少不純な理由で)英会話クラブにかわりました。
そのようにして英語を勉強していたのですが、市立図書館で英作文の本を探していた時に偶然金田一京助の「北の人」という随筆に出会います。これは彼が樺太アイヌの調査に行ったときの話です。彼は調査に行き詰まり、調査の継続をあきらめようかと、無聊に絵を描いていました。そのとき周りにいた子供たちが寄ってきて、絵の中のものを指さしながら、その名前を樺太アイヌ語で言います。そこでひらめいた金田一は画用紙にでたらめの線を書きます。そうすると子供たちは口々に「ヘマタ」と叫びます。すでに知っていた北海道アイヌ語との類推から「ヘマタ」は「何?」に当たることばであると確信した金田一は次々にものを指しながらヘマタと言っていろいろな単語の形を調べます。「ヘマタ」という魔法の言葉を得た金田一は一か月ほどで、樺太アイヌ語の文法概要と語彙集、3000行の叙事詩の採録を終えて帰任します。この随筆を読んだときの感動はいまでも忘れません。
ただ、このころは言語学という学問の存在をちゃんと知っていたかどうかわかりません。言葉は好きだったようで、国語の時間にならった文節の係り受けに凝って、係り受けの構造図を毎日書いたり、それを英語の文の構造分析に使ったりしていました。発音記号が好きで、発音記号を見ながら、何回も発音練習してそこそこきれいな英語が話せるようになりました。そうこうしているうちに大学受験になるのですが、多分英語教師になるつもりで、大阪外国語大学(現在の大阪大学)に入ろうと思ったのだと記憶しています。当時は一期、二期と大学が分かれていて、大阪外大は二期校だったので、一期校をどこか受けようと思って京都大学を受けたのだと思います。苦手科目だった数学がその年は非常にやさしかったため、他の受験生と差がつかず、京都大学に受かってしまったので、大阪外大は受けませんでした。受けて合格していれば影山前所長の一年後輩になって同じ授業を受けていたかもしれません。
1969年大学紛争の真っ最中に京都大学に入って、一年間ほとんど授業がなかったので、時々英会話サークルや体操部の練習に出かけながら、毎日英語の小説を読んでいました。たぶん最初は子供向けの優しい本や、外国人向けにやさしく書き直した小説を読んでいたのだと思うのですが、だんだんと普通の小説を読むようになって、それほど問題なく英語が読めるようになりました。話したり聞いたりはもともと毎日英語の放送を聞いていたので問題はありませんでした。デンマークの言語学者のイェスペルセン(Jespersen)の書いた英文法の本や、アメリカの構造主義言語学者で構造主義言語学を英語教育に応用したフリーズ(Fries)の書いた構造主義の入門書なんかを読んで楽しかったので、英語学を専攻しようと思ったのですが、当時の京都大学の英語・英文科は英語学の先生がおらず、英語学を専攻する学生は受け入れてくれませんでした。
入学して一年たって授業が再開し、担任の先生が大橋保夫という有名なフランス語学者だったり、渡辺実、阪倉篤義というこれも有名な国語学の先生の開講されていた言学という言語学の授業に感動したりして、結局言語学を専攻することにして、言語学講座に入りました。当時の言語学講座は西田龍雄先生というえらい先生がいたのですが、私が入ったときはロシアに長期出張に行っていて誰もおらず、東京外大から徳永康元という先生が来て集中講義をしてくれました。なぜかその先生の授業には私一人しか出席しておらず、二人きりで教えてもらいました。
その後、西田先生が帰国し、授業が本格的に始まりました。言語学講座でいろんな言語を勉強しながら、構造主義言語学、生成文法、日本語、朝鮮語、満洲語(清朝の言語)の文献学などを専門的に学びましたが、文献学は、記憶力がすぐれ、また文献そのものが好きでないとできないのですぐに自分には才能がないことがわかりました。言語学講座では、金田一のように外国の奥地に出かけ、現地で収集したデータで文法や辞書を作るというフィールドワークをやる人もいました。その苦労話を聞くととても自分にはできないと思い、フィールドワークも諦めて、自分にもできそうな統語理論をやりました。
大学院の博士課程を出るときに韓国の大学で日本語を教える職があり、韓国の慶州というところで2年間現代日本語や古文を教えました。そのあと運よく神戸大学の教養部の職を得て、日本語・日本事情の教師をやったのですが、日本の大学で日本語を教えるとなると、共通の言語はないわけで、日本語のみで日本語を教えるため、ずいぶん苦労しました。このころ、日本語教育の必要性から、統語理論的な研究より、日本語の記述に関心を移し、日本語教育に資するような文法書や留学生用の練習帳などを作りました。また、日本語教育用の文法書が実は言語処理に利用可能ということもあり、工学的な言語処理関係の方との接点も増えていきました。
九州大学の言語学講座に移ってからもまた、2000年に京都大学に移ってからもしばらく理論的な研究や教育を行ってきたのですが、2006年1月全くの偶然でUCLAの岩崎勝一さん、カナダアルバータ大学の大野剛さんたちと宮古島の池間方言の調査を始めます。これは京都大学の総長裁量経費をいただいて学生とのフィールドワークに使えと言われたためです。それまで敬して遠ざけていたフィールドワーク調査に出かけました(写真)。池間方言は琉球諸語のひとつの宮古語の方言ですが、日本語の共通語とは全く異なり別の言語です。それが調査によってすこしずつ理解できるようになっていきます。すこし経つと全く理解できなかった談話の録音も聞き取れるようになり、単語もどんどん増えていきます。英語やドイツ語のような、他人が書いた文法書や辞書からでなく自分で直接話者の人に聞くことでその言語のことを理解していくわくわく感に見事にはまってしまい、それから年に8回ほど調査に出かけるようになりました。当時宮古高校の校長だった仲間博之先生や公民館長だった仲間忠さんをはじめとする土地の人たちとも仲良くなって、京都大学にもなんども来てもらい、フィールドワークの授業にも先生として参加してもらいました。現在は仲間先生と岩崎さんとで池間方言の辞書を作っています。金田一の随筆を読んでから50年以上たってフィールドワーク調査を始めるとはなにか運命的なものを感じざるを得ません。