Vol. 9 (2021年3月発行)
生成文法理論は、過去60年の研究を通して大きく発展しました。まず、個別言語の文法を規則の体系として整備することに始まり、提示された規則群を説明すべき対象とした「原理とパラメターの理論」に結実します。現在追求されている極小主義アプローチは、言語が言語として成立するために必要な最低限のメカニズムに基づいて原理群そのものに説明を与えようとする試みです。
Noam Chomsky の提示する現代文法理論は、以下の操作を中核に据えます。
併合は、例えば、他動詞Vと名詞句NPからγ={V、NP}を形成します。γはVとNPのどちらの性質を持つのでしょうか。γが主要部(語/形態素)と句を含む場合には、前者がγの性質を決定します。従って、γ={V、NP}はVPと解釈されます。γ={XP、YP}のように二つの句を含む構成素は、一定の条件下でラベル付けがなされます。文は、主語のNPと述部TP={T(時制)、VP}を併合することにより形成されます。この場合には、「一致」よりTが主語の人称、数などを表すことから、γの中心となり、γの性質を決定します。
では、性や数などの「一致」を欠く日本語では、文はどのようにラベル付けがなされるのでしょうか。日本語の類型的特徴は、どのようなラベル付けのメカニズムを仮定すれば、説明されうるのでしょうか。
文法理論の発展は、ヨーロッパ系言語の記述的研究に多くを依拠しています。しかし、文法理論は、どの言語にも共通する普遍性のみならず、言語間変異をも説明するものでなくてはなりません。そこで、ヨーロッパ系言語と類型的に異なる日本語が注目され、日本語研究からの一般理論への貢献が期待されてきました。本プロジェクトは、この期待に応えることを目的として遂行されました。
本プロジェクト「日本語から生成文法理論へ : 統語理論と言語獲得」と、その前身である「言語の普遍性及び多様性を司る生得的制約」(2011〜2014年度)の成果として、研究員20名によって数多くの論文が国内外の専門誌に発表され、また、以下の書籍も公刊されました。
その中から、日本語の類型論的特徴を説明する研究の一部を紹介しましょう。
日本語の特徴として、広範な空項の分布があります。例えば、英語などの言語とは異なり、(7b)のように目的語が表われない文が許容されます。
黒田成幸の博士論文(1965)以降、日本語には、音声を伴わない空の代名詞があり、(7b)の目的語も空代名詞であると考えられてきました。
空代名詞とは、どのような言語に存在するのでしょうか。研究史の中で、豊かな「一致」のあるイタリア語などの言語と日本語のように「一致」の全くない言語が、空代名詞を許容することがわかってきました。それはなぜなのでしょうか。
この問題を深める契機となったのは、本プロジェクトの研究員である奥聡の博士論文(1998)です。奥は、日本語の空項は、空代名詞である場合に加えて、英語の‘ He did_’ に見られるような動詞句省略と同様に、主語や目的語を省略することによって生じることを示しました。項省略として知られる現象です。
この発見を受け、本プロジェクトの研究員である斎藤衛(2007)は、文法理論は、項省略が「一致」が欠如する場合にのみ許容されることを予測すると論じました。本プロジェクトでは、高橋大厚が中心となり、空項の研究に取り組みました。高橋は、まず、海外の研究協力者とともに、斎藤の予測を経験的に検証し、その成果を(3)に公表しました。さらに、(4)には、日本語における空代名詞を項省略によって生じるものとして捉え直す分析を発表しました。ここに、豊かな「一致」が空代名詞を可能にし、「一致」の欠如が項省略を可能にするという一般化と、これが文法理論の帰結として導かれるとする仮説が成立しました。現在も世界的規模で検証が続いています。
本プロジェクトでは、日本語を特徴づける多重主語や自由語順などについても説明を深めました。
冒頭で述べたように、「一致」を欠く日本語文がどのようにラベル付けされるかが問題となります。この問いに答える仮説として、斎藤(2016)は、The Linguistic Review において、格助詞や述語活用の接辞が句をラベル付けにおいて不可視化すると提案しました。例えば、日本語の文は、γ={NPが、TP}となりますが、「が」が主語を不可視的にするため、γはTPとラベル付けされます。さらに、(8)に例示する多重主語文にも同様にラベル付けがなされます。
主語以外の要素を文頭に移動し、文と併合することで可能となる自由語順も、同ラベル付けにより説明されます。目的語を文頭に移動するとγ={NPを、TP}が形成されますが、「を」が目的語を不可視的にするため、γはTPとラベル付けされます。この仮説は、二つの句が併合された場合のラベル付けメカニズムの相違が、言語間変異を生むことを含意します。
この仮説を検証し、発展させる研究も研究成果には多く含まれています。この仮説を幼児の言語獲得データから検証したのが、(5)に掲載された村杉の論文です。言語獲得の初期に見られる様々な「文法的な誤り」が、母語のラベル付けメカニズムを獲得するための試行錯誤のプロセスとして分析されています。
文法論では、高野祐二が二重焦点化、奥が計量詞作用域、斎藤が以下に概観する連体修飾節に関する日本語の特徴を説明する論文を(6)に発表しています。
日本語研究では、連体修飾節の多様性がよく指摘されます。日本語では、以下のような例も許容されます。
このような例は、文(TP)と名詞句(NP)を併合することにより、γ={TP、NP}として形成されると考えられます。日本語ではなぜこのような構造が許容されるのでしょうか。斎藤は、連体修飾節が連体形を有することに注目し、活用接辞がTPを不可視的にするため、γはNPとしてラベル付けがなされると論じています。
言語学は、言語知識がどのようなものであり、ヒトがそれを自然に獲得できるのはなぜかを問う学問です。科学は、事実を見据え、その事実がなぜ生じるのかを問うことによって発展してきました。科学としての言語学も例外ではありません。
本プロジェクトは、日本語の「不思議」な類型的特徴について、新たな事実を発見しつつ、文法理論の発展をふまえて他言語との相違と相同に明確な説明を与えました。立川を基地とし、日本語分析を契機として、文法理論の発展に寄与することをめざしたチームといえるのかもしれません。この試みが、これからも国語研において引き継がれることを祈っています。
(南山大学・教授/村杉恵子)