ことばの波止場

Vol. 10 (2021年9月発行)

特集 : 専門用語を取り込む工夫 難解用語の言語問題に対応する言い換え提案の検証とその応用

専門用語を取り込む工夫

「クラスター」と「オーバーシュート」

コロナ禍の1年半、専門用語起源の多くの新語が登場し、あるものは定着し、あるものは淘汰された。その定着や淘汰の過程では、新しい概念の普及に役立った言い換えや言い添えの工夫もあれば、混乱につながる不作為も見られた。

「クラスター」は、当初は、わかりにくいと言われたが、「感染者集団」「集団感染」などと言い添えが行われるうちに、すっかり定着してきた。「オーバーシュート」も、はじめ、「感染者の爆発的な増加」「爆発的な感染拡大」などと言い添えを伴いながらもよく使われたが、やがて使われることが少なくなっていった。この違いは何によるのか。

「クラスター」は、上述した言い添えを伴いつつ、「密」「3密」「濃厚接触」など関連する多くの新語とともに、感染予防に関する具体的でわかりやすい語彙体系を確立し、個々の語の意味の輪郭も明確になっていったと見ることができる。

一方、「オーバーシュート」は、「実効再生産数」「指数関数的」などの関連語とともに用いられたものの、それらは数学的な思考が求められる抽象的で難解な単語群であり、一般の人が理解しやすい語彙体系は形成されなかった。

もしも、感染者数の増加の科学的な見通しを国民で共有することで、人々に行動変容を促したり、医療体制の整備を進めたりする政策を取ろうとするのであれば、専門家、政府、報道機関は、こうした用語への言い添えや説明の仕方に工夫をこらすことで理解を得、感染拡大防止への協力を呼びかけるメッセージを発するべきではなかっただろうか。

「エアロゾル感染」と「マイクロ飛沫感染」

科学的な内容を含む専門用語の言い換えや説明は、とても難しい。例えば、「エアロゾル感染」「マイクロ飛沫感染」という専門用語は、当初から注目されていた「飛沫感染」に加え、後になって報道される機会が増えてきたものである。飛沫よりも小さな粒子によって空気中をウイルスが漂うことによる感染を意味する語だが、飛沫を直接吸い込むことで感染する「飛沫感染」と、換気された車内や店内などでも感染する「空気感染」との間にあって、その位置づけがわかりにくい。ほぼ同義の二つの用語を統一する報道がなされたことがあるが、現在も二つが並存したままで、混乱をきたしている。語彙体系が形成されないまま放置されてしまっている。

このように、専門用語を一般の人々にも理解できるわかりやすい語彙体系に位置づけていくことは容易でない。筆者が国立国語研究所在職中に担当した、「『外来語』言い換え提案」(2002~2006年)と「『病院の言葉』を分かりやすくする提案」(2007~2009年)は、そこに挑戦するプロジェクトだったが、苦心したもののうまくいかなかった言い換えも多かった。当時はうまくいかなかった提案の例から、その後、語彙体系の形成に向かって状況が改善してきている事例を紹介しよう。

「モチベーション」と「インセンティブ」

図のように、「『外来語』言い換え提案」では、「モチベーション」を「動機付け」と言い換え、「インセンティブ」を「意欲刺激」と言い換えることを提案したが(図中の★の数は、定着度の段階を示しており、国民全体では「モチベーション」は下から2番め、「インセンティブ」は一番下の段階)、いずれの言い換え語もあまり使われずに終わった。

「外来語」言い換え提案(モチベーションとインセンティブ)
図 「外来語」言い換え提案(国立国語研究所「外来語」委員会編『外来語言い換え手引き』(ぎょうせい、2006年、p.49、p.174)より)

「モチベーション」は、2000年代後半から徐々に普及が進み、一般紙での使用頻度は増加していき、現在では、言い添えもなしによく使われており、定着かその寸前まで進んでいると見てよかろう。一方、「インセンティブ」は、使用頻度は増加傾向にあるものの、現在も普及は不十分で、一般紙で使われる場合は、言い添えが必要な段階にとどまっている。しかし、その言い添えに「意欲刺激」が使われることはほとんどない。

「『外来語』言い換え提案」では、文脈によっては用いることができる「その他の言い換え語例」として、「モチベーション」には「意欲」「やる気」などを、「インセンティブ」には「誘因」「動機付け」「報奨金」「優遇措置」などを示した。

現在ほぼ定着した「モチベーション」の使用例を観察すると、「モチベーションを上げる」「モチベーションを保つ」のように、「意欲」「やる気」の意味で使われている場合がきわめて多く、当初の意味の中心からは少しずれたところに、この語の居場所は定まったようだ。

「インセンティブ」が一般紙で使われるときに言い添えられる語を調べると、2000年ごろは、経済の専門用語としての意味を示す「誘因」や「報奨金」「優遇措置」などが多かったが、2010年ごろまでには「動機付け」も多くなり、2020年には「動機付け」が大部分を占めるようになっている。何らかの行動を起こすのに「補助金がインセンティブになる」というように使われるのが典型例で、行動に対する動機付けという意味だ。この意味に落ち着きつつある「インセンティブ」も、一般語としての意味の輪郭が固まりつつあると見ることができるので、今後定着に向かう可能性があるだろう。

人がある行動に出る際、外面から動機付ける「インセンティブ」が働いたり、内面にある意欲の「モチベーション」が活性化したりする、それぞれの局面を指す語が、一般語として体系化されつつあるわけだ。新しい語が定着するとは、語彙体系が形成されることにほかならない。

専門用語の中には、社会の変化に伴って、一般語彙に取り込むことが望まれるものがある。その必要性は、緊急時に痛感されるが、その実現には困難を伴うことも多い。色々な表現で言い換えや言い添えを工夫することを通して、わかりやすい語彙体系が形成されていく。そうした表現の工夫を、平時から様々な立場の人が重ねることで、よりよい日本語の語彙体系をつくりやすい土壌を養っておくことが大切だ。

(明治大学・教授/田中牧郎)