Vol. 12-1 (2022年10月公開)
「常套句」ということばを覚えたのは中学2年生の時でした。当時の自分の文章が残ってるので、たぶん間違いありません。それまでは「よく使うことば」「ありふれたことば」などと表現していました。それを難しいことばで「常套句」と言うらしい。かっこいい。
そのすぐ後に、担任の先生が「常套手段」ということばを使うのを聞いて、それも覚えました。何かをするときに決まって使う手段のこと。「常套」の使い方がだんだん分かってきました。「もっとたくさん難しいことばを覚えたい」と思うようになり、私のことばは少年期を終えて青年期に移行しました。そのきっかけのひとつが「常套」でした。
ところで、私はどこでこの「常套句」ということばを知ったのでしょう。たしか筒井康隆さんの小説だった気がするけれど、さて、何という小説だったか……。
私のパソコンには、書籍・雑誌などを自分でスキャンして作成したテキストデータが3,000冊分以上入っています。その中には、中学の頃に読んだ本のデータも含まれています。
データを検索してみると、筒井さんの作品には「常套句」「常套的」などの語がよく出てきます。時期から考えて、私が最初に目にしたのは『大いなる助走』(1979)にある以下の例だったかもしれません。
〈選考委員の老大家たちが、リアリティがない、文章が生硬である、観念的に過ぎるといった、あのての作品に対する常套句を振りまわして〉
私がもし「私自身のことばの辞典」を編纂するとしたら、「常套句」の用例として、まずこの一節を引用することになるでしょう。私にとっては貴重な用例です。
では、もうひとつ。「どういう訳の訳柄か」という奇妙な言い回しがあります。意味は「どういうわけか」ということ。私がこの「訳柄」ということばを知ったのは、はたしてどこでだったか。北杜夫の小説で見たのは覚えています。でも、彼のどの作品だっけ。
またしても、パソコンの中のテキストデータを検索してみます。すると、『どくとるマンボウ航海記』(1960)の中に以下の一文がありました。
〈〔登山で〕一体どういう訳の訳柄か、必ずといってよいくらい尾根を間違えてしまったものである〉
このほか、『どくとるマンボウ青春記』『奇病連盟』などにも「訳柄」は出てきますが、最初に読んだのは『航海記』で、小学6年生の時だった。もやもやが晴れて、すっきりしました。
こんなふうに、私は「このことばを、自分はいつ、どこで知ったか」に関心を持ちます。国語辞典を作る仕事を長く続けているせいでしょう。
辞書作りの作業の中で、たとえば「イマイチ」ということばがいつ現れたかを調べるとします。実例は1970年代末からあります。私自身もその頃、雑誌で初めて「イマイチ」を目にして、強い印象を受けた記憶があります。その文章は「最近人気がイマイチのレツゴー三匹」というものでした。でも、何という雑誌だったか覚えていない。その雑誌があれば、「イマイチ」のいい用例になるんだがなあ、と悔しい。いつしか、「自分が今までに覚えたことば全部に、いつ、どこで出合ったかというラベルがついていたらいいのに」などと空想するようになりました。
現在の私は、初めて目にしたことばがあれば、日付と場所(出所)の情報とともに極力メモを取ります。いわゆる「用例採集」です。仕事柄、これは習慣になっています。一方、辞書の仕事に従事する以前に出合ったことばについては、「いつ、どこで出合ったか」をほとんど覚えていないことに愕然とします。
その欠落を埋めるべく、最近の書籍だけでなく、昔読んだ本、雑誌などをパソコンのデータに加えるようになりました。もちろん、それらは過去に出合った膨大なことばたちのごく一部にすぎないのですが、たまに、「そうそう、この本にあったっけ」ということばを見つけるとうれしくなります。
「ダケカンバ(岳樺)」という樹木は、松谷みよ子『コッペパンはきつねいろ』で知りました。小学1年生の時です。さまざまな具材が入ったラーメンを「五目そば」と言うことは、大石真『ミス3年2組のたんじょう会』で読みました。これは小学3年生の時。まんじゅうの種類に「そばまんじゅう・くりまんじゅう・くずまんじゅう・酒まんじゅう・中華まんじゅう」などがあるのは、興津要『落語ばなし まんじゅうこわい』で覚えました。3年生か4年生だった。
こんな調子で、自分がいつ、どこで、どんなことばを覚えたかを探索していくと、自分のことばのルーツが分かって面白いものです。自分のことばを知るということは、自分自身を知ることです。
この探索を行うことが、用例採集以外にどんな実益をもたらすか、それはよく分かりません。昔読んだ本をテキストデータにしてパソコンに蓄積する作業を喜んでする人が多いとも思えません。でも、そこまでしなくても、昔好きだった本をちょっと読み返して、その当時出合ったことばに再会する、というのも悪くないものです。
あなたにも、気に入って愛用していることばがきっといくつもあるでしょう。そのことばを初めて知ったのは、いつ、どこででしたか。記憶がおぼろげにならないうちに確かめてみてはどうでしょう。思いのほか、実り多い作業になるかもしれませんよ。
いいま・ひろあき。1967年、香川県高松市生まれ。国語辞典編纂者。『三省堂国語辞典』編集委員。著書に『日本語はこわくない』(PHP研究所)、『日本語をもっとつかまえろ!』(毎日新聞出版)、『知っておくと役立つ 街の変な日本語』(朝日新聞出版・朝日新書)、『ことばハンター』(ポプラ社・児童書)など。
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