国語研の窓

第7号(2001年4月1日発行)

暮らしに生きることば

「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」
(いっぴつけいじょう ひのようじん おせんなかすな うまこやせ)

これは、徳川家康の家臣・本多作左衛門重次(1529~96)が陣中から妻に送った手紙で、簡潔な名文とされています。

この手紙にある「一筆啓上」とは、男性の手紙の冒頭に書く言葉(頭語)で、現在の「拝啓」にあたります。中世後期から使われ、多く「一筆啓上奉り候」「一筆啓上仕り候」などと書かれますが、江戸時代の手紙作法書『書札調法記(しょさつちょうほうき)』(1695)によると、相手との上下関係によって、これらを使い分けていたようです。なかでも「一筆啓上奉り候」がもっとも敬意が高いとされていました。また、目上の人には、楷書に近い書体で書き、目下には、行書や草書などのくずした書体を使うというように、書体も使い分けられていました。古くは、手紙の言葉について、かなり細かなきまりのあったことが分かります。

「一筆啓上」は、夏目漱石の書簡にも見られますが、明治時代後期には、次第に用いられなくなり、代わって、現在もっとも一般的な「拝啓」が手紙の頭語として定着しました。現在では、手紙で「一筆啓上」を目にすることは、ほとんどありません。

しかし、本多作左衛門重次の居城であった丸岡城のある福井県丸岡町では、1993年から日本一短い心のこもった手紙文コンクール「一筆啓上賞」が開かれ、入選作が本にまとめられて、話題にもなりました。「一筆啓上」は、二字の漢語で簡潔な「拝啓」よりも、心のこもった、温かさを感じさせてくれる手紙の言葉として、今日まで受けつがれてきたのです。これには、本多作左衛門重次の名文が一役買っているでしょう。

このように、使われなくなった言葉が文化的な遺産として、ひとびとに愛され、継承されていくこともあるのです。

(小椋 秀樹)

『国語研の窓』は1999年~2009年に発行された広報誌です。記事内のデータやURLは全て発行当時のものです。