国語研の窓

第9号(2001年10月1日発行)

表紙のことば

創立当初[聖徳記念絵画館]を訪ねて

第9号(2001年10月1日発行)表紙
創立当初~昭和29年9月:聖徳記念絵画館の一部を借用
(写真 聖徳記念絵画館所蔵)

昭和23年12月20日の創立以来、国立国語研究所は何度か移転・改築を続けてきました。1年前、その旧庁舎を追ってみることになり、第1回として、かつて分室として使用された旧山本有三邸(現・三鷹市山本有三記念館)を訪ねました(本誌第5号)。第2回の今回は、創立当初、研究所がその一部を借用して仕事をしていた、聖徳記念絵画館を取り上げます。

絵画館は大正時代に建てられた、鉄筋コンクリート造りの建物で、外壁と階段が花崗岩で表装されています。表紙の写真から分かるように、左右対称(向かって右が東、左が西)の造りで、上から見ると、「H」の横棒を長くした形をしています。

正面中央の階段を上ったところが主階(画室)で、明治天皇・昭憲皇太后お二人のご業績を伝える80枚の絵画が展示されています。第2次大戦中は、閉館し、壁画を地階(1階)へ格納していましたが、昭和22年12月、進駐軍による接収が解除されると、翌23年1月に一般公開されました。現在、絵画館を訪れる人は正面の花崗岩造りの階段を利用しますが、当時は、一般の拝観者は地階東側の「公衆入口」から入り、「下足取扱所」「広間」などを通って、主階へは屋内の階段を利用していたそうです。

国語研究所は、創立当初から、昭和29年9月30日に神田一ッ橋に移転するまでの約6年間、絵画館地階の西半分を借用して仕事をしていました(現在この部分は、絵画館学園として利用されています)。

この間、仕事が進むにつれ手狭になったため、昭和26年12月からは、研究所の一部が山本有三邸や新宿区立四谷第六小学校の一部を分室として借用することになりましたが、それまでは、所長、庶務部、部長などは別として、ほぼすべての所員(定員50余名)が1つの大きな部屋の中で、研究室ごとに机を並べて、仕事をしていたそうです。

早く明治30年代には、国語問題の解決には、その前提として広範な国語の調査研究が必要であり、そのためには、適当な研究機関を設立しなくてはならぬということが、先覚によって唱えられていました。昭和23年に国語研究所が設立されたものの、当時、現代語を研究する専門家はほとんどいないような状況でした。

そのような中、研究所では、録音器で実際の話しことばを録音してデータとして利用したり、新聞や雑誌から用例を大量に集めて分析したり、統計の手法を取り入れたりして、さまざまな現代語研究の方法を開発しながら、研究を進めました。また、それまで、個人で行われることの多かった日本語の研究に、総合的な共同研究という形で取り組みました。これは、創立当初から所内に「社会的目的を持った研究を行わねばならない」という雰囲気があり、そのためには共同研究により大規模な調査研究を、と考えてのことだったようです。

石造りの絵画館は、冬の寒さが身にこたえたそうですが、その寒さに耐えていた人たちこそ、現代語研究という領域を開拓し、推進して行った、熱い人たちだったといえるのではないでしょうか。

(池田 理恵子)

『国語研の窓』は1999年~2009年に発行された広報誌です。記事内のデータやURLは全て発行当時のものです。