第10号(2002年1月1日発行)
言語学では音声の構造を研究する領域を音韻論と呼び,音韻論では意味に影響する音の単位を音素と呼びます。「傘kasa」と「肩kata」では/s/と/t/が交替することによって語の意味が変化しますから,/s/と/t/は共に音素です。「雨」と「飴」では子音や母音は同一ですが,アクセントの相違によって意味が変化します。従ってアクセントもまた一種の音素です(アクセントについては本誌9号に相澤正夫氏による解説があります)。
さて,ここで「ナニヤッテンノ」というひとつのテキストを考えましょう。このテキストは聞き手に質問する場合にも使いますが,聞き手を叱責する場合やからかう場合にも使えます。音素もアクセントも文法構造も同じなのに話し手の意図は明らかに異なっている…このように音韻や文法では把握することができない意味のことを言語学では語用論的な意味と呼びます。
語用論的意味には様々な種類があります。「この部屋は暑いですねえ」と言って,聞き手に窓を開けてもらう場合,話し手は<依頼>という語用論的意味の伝達を意図しているのですが,ここで伝達が成立するためには広い意味での文脈が必要とされます。聞き手が窓を開けられる位置にいること,話し手が聞き手に行為を要求できる立場にあること等がその文脈を形成します。従って文脈から切り離された音声そのものを聴取しただけではその発話が上述の語用論的意味を含んでいるかどうかを判断できないことがあります。
一方,文脈の力を借りずに伝達される語用論的意味もあります。上に述べた「ナニヤッテンノ」の例がそれにあたります。文脈を必要としないということは,つまり発話の意図の相違が耳に聞こえる音声の特徴として含まれているということです。
図1に<質問><叱責><からかい>という3種の意図で発音された「ナニヤッテンノ」のイントネーションを示しました。イントネーションとはピッチ(声の高さ)の時間変化曲線のことで,図では横軸が時間,縦軸がピッチです。三者のイントネーションは明確に相違していますが,この相違は従来の音韻論では考察の対象から除外されてきています。
図1 3種類の「ナニヤッテンノ」のイントネーション
参考文献[1]から引用
私の研究グループでは「ソーデスカ」などのテキストを<質問><強調の質問><落胆><感心><疑い><無関心>という6種類の語用論的意味で発音した音声を用いて,話者の意図をどの程度正確に聞きとることができるかを調べたことがあります。実験の結果,平均で80%,<疑い>や<感心>についてはほぼ100%の正解率が得られました。
このような,音声だけによって伝達可能な語用論的意味を「パラ言語的意味」と呼ぶことにしましょう(「パラは「~の近所に」という意味を表す接頭辞であり,paralanguageは「周辺言語」と訳されることがあります)。
パラ言語的意味の伝達には音声のどのような特徴が関係しているでしょうか。図2は上記の実験に利用した音声のひとつ「ソーデスカ」のイントネーションです。図中の縦線は音節の境界,つまり「そう|で|す|か」の切れ目を示しています。
図2 6種のパラ言語的意味で発音された「そうですか」のイントネーション
この図からはいろいろな情報が読みとれます。まず発音に要する時間が大幅に変動しており,<感心><落胆><疑い>は,<質問><強調の質問><無関心>に比べてずっと長くなっています。また発話全体が一様に長くなるのではなく,冒頭と末尾の音節(「そう」と「か」)が著しくのびていることもわかります。
次に声の高さに注目します。まず最も目につくのは発話末尾の高さでしょう。<質問><強調の質問><疑い>ではピッチが上昇しており他では下降しています。一般に聴き手から何らかの情報を引き出そうとする発話の末尾に上昇が生じることはよく知られていますが,「質問」と「疑い」とでは上昇の形が異なっています。前者では音節「か」の内部でほぼ直線的にピッチが上昇しているのに対して,後者では音節の前半では低いピッチが持続し,その後に上昇が始まっています。
発話冒頭でもピッチは顕著に変動していますが,ここではアクセントとの関係が重要です。「そう」という語のアクセントは頭高型です。つまりピッチがいきなり高く始まりすぐに下降するタイプのアクセントです。実際図2でも「質問」「強調の質問」「無関心」ではそのとおりの形を示しています。しかし「感心」と「疑い」の冒頭のピッチは非常に低く,一定時間低い状態を維持した後に急激に上昇しています。持続時間とピッチの特徴がパラ言語的な意味の伝達に大きく寄与していることは知覚実験によって確認できます。またイントネーションと持続時間だけでなく,母音の音質や声帯振動の様式などもパラ言語的な意味によって組織的に変化することがわかってきています。興味のある方は参考文献[2]をご覧ください(ただし専門的な論文であることをお断りしておきます)。
以上のようにパラ言語的意味に関係する音声特徴についてはある程度研究を進めることができました。この種の実験的研究は今後も継続する必要がありますが,今後はそれと並行して種々の音声特徴の組み合わせとパラ言語的意味との対応関係を明らかにする必要があります。つまりパラ言語的意味を基準とした音韻論の構築ですが,これには難しい問題が山積しています。
何よりも重要なのは種々の音声特徴とテキストの文法的意味との間の相互作用の問題でしょう。あるひとつのテキストに対してXというパラ言語的意味をもたらす音声特徴の組み合わせがあらゆるテキストに対して同じXをもたらすならば相互作用は存在しないことになりますが,実際はそうではなさそうです。例えば「ソーデスカ」の終助詞「カ」を「ネ」に替えたテキストを図2の「疑い」の調子で発音しても,それは「疑い」とは知覚されないでしょう。
相互作用の問題を正しく理解するためには,パラ言語的な意味に組織的な分類を施す必要がありますが,これはそれだけでひとつの大仕事です。
パラ言語的意味は,従来の言語研究では真剣に考察されたことがありません。しかし,日常の言語生活においてパラ言語的意味が重要な役割を果たしていることは明らかです。この失われた意味と音声との関係を解明することができれば音声コミュニケーションのメカニズムに対する理解を深めることができ,ひいては朗読や演劇の指導,もしくはコンピュータによる合成音声の品質向上などへ応用する可能性も拓けてくると思われます。
参考文献
[1]前川「パラ言語的情報」『別冊国文学』No.53,pp.172-175,学燈社,2000.
[2]前川・北川「パラ言語的情報の生成と知覚」電子情報通信学会技術報告(SP99-10),pp.9-16,1999.
(前川 喜久雄)
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