第36号(2008年7月1日発行)
国立国語研究所は今年12月20日,創立60周年を迎えます。今号と次号の2号にわたり,元所員の方々に,在職当時の国立国語研究所の調査研究事業の様子や思い出を紹介していただきます。
斎賀 秀夫(国立国語研究所名誉所員)
国立国語研究所は, 1948年の創設から 5年半,明治神宮外苑のシンボルでもある聖徳記念絵画館を仮住居として過ごした。戦後日本の復興がまだ緒についたばかりで,国民の大半は衣食住とも不自由な生活を強いられていた時代であり,研究の遂行にも様々な支障があった。花崗岩(かこうがん)で外装された絵画館の正面から左半分の地階(外見では一階)部分を借用したのだが,この石造りの建物は,絵画の保存・展示には適していても人間の居住空間としては良好なものではなく,特に冬場の寒さには閉口した。煙突を屋外に出しては絵画館の美観が損なわれるという理由で,石炭ストーブの設置が許されず,やむなく炭火をいけた大火鉢がそこここに置かれただけだった。それで換気不十分のせいもあって一酸化炭素中毒にかかる所員も何人か出たりした。翌年の冬からはストーブが解禁になったが,それも四つの部屋のストーブに対して屋外に出せる煙突は一本だけという制約があり,暖房効果はそれほど上がらなかった。所員たちは,寒さの厳しい日には毛布で腰から下を覆ったり,オーバーを着込んだまま机に向かったりして,それぞれに自衛策を講じたものだ。筆者もポケットウィスキーの空き瓶に熱湯をいれて懐炉代わりに使ってみたが,すぐに冷めてしまい“特効薬 ”にはならなかった。空調完備の生活に慣れた現代人にとっては想像もできない苦難であった。
絵画館左端のやや突き出た大部屋に研究部所属の全員が入った。所員約 30人のほか,常勤アルバイタ(後の臨時筆生)や内地留学生も加えて総勢 50~ 60人が執務するという窮屈さだったが,その反面,利点もあった。初対面だった所員同士の顔と名前がすぐに覚えられたり,お互いのコミュニケーションも十分に取れたりしたことだ。そして,そのことが,国研発足当初のスローガンでもあった“共同研究 ”の推進にも大いに役立った。
国語研究所を挙げての初年度の共同研究は,「白河市での言語生活の実態調査」であり,筆者も 11月の前調査と 12月の本調査に調査員の一員として参加した。この調査の内容・結果については報告書(国立国語研究所報告2)に詳述されているが,そこに記されていないこぼれ話を一,二紹介する。
新しい試みの「24時間調査」(個人の一日の言語生活を観察し,記録する)に備えて,所は米国製のワイヤーレコーダーを購入した。かなり大型で重量のある機器だったが,それを手製の大きなリュックサック(麻袋)に収めて,屈強の所員が交替で背負い運搬したが,現地では故障して全く使い物にならず,結局,同調査は調査員たちの手書き作業に頼らざるをえなくなり,文字通り“骨折り損 ”に終わった。
面接調査で被調査者から発音・アクセント・語形などを聞き出すために何枚かの略画が用意された。ガリ版刷りで作成したものだが,その絵の巧拙が調査結果にも影響を及ぼした。「カメラ」と「写真機」のどちらの語形で答えるかを調べるために,前調査の際は当時出回りかけていた新型カメラを描いた略画を提示した。ところが被調査者の多くは首を傾げるばかりでなかなか反応が得られない。中には「煙草(たばこ)盆」と答える人もいたりして,調査員を悩ませた。その反省から本調査の際には旧式の蛇腹式カメラの略画に変更したところ,今度は「写真機」という反応が圧倒的に多く,「カメラ」と答えた人は少なかった。絵の巧拙が回答結果に影響した一例である。いずれにせよ,写真やコピー機・録音機などが自由自在に利用できる現代人にとっては思いも及ばない,60年も昔の研究事情の一端である。
「国語研の窓」第9号 「表紙のことば」(聖徳記念絵画館):https://kokken.jp/mado/09/09-07/
「国語研の窓」第32号 「表紙のことば」(白河調査のアルバムから):https://kokken.jp/mado/32/32-06/
国立国語研究所報告2『言語生活の実態―白河市及び付近の農村における―』(1951)
[電子化報告書(PDF)のダウンロードページ]:http://www5.kokken.go.jp/dash4/d_rep5.html#mozTocId38135
『国語研の窓』は1999年~2009年に発行された広報誌です。記事内のデータやURLは全て発行当時のものです。