第37号(2008年10月1日発行)
国立国語研究所は今年12月20日,創立60周年を迎えます。前号に続き,元所員の方に,在職当時の調査研究事業の様子や思い出を紹介していただきます。
上野 田鶴子(放送大学客員教授・特定非営利活動法人日本語教育研究所理事長)
日本語教育センター(以後,センター)は1977年4月に発足し,私は第二研究室長として10月に着任しました。センターには対照研究のための4研究室に加え教材開発室と研修室がありました。第一研究室は基礎研究,第二研究室は欧米語,第三研究室は東南アジア語,第四研究室は東アジア語との対照研究を担当し,教材開発室は映像教材作成,研修室は教員養成のための長期研修と短期研修を担当していました。初年度は第一研究室, 第二研究室,教材開発室と研修室の4室で,その後,第三研究室,第四研究室と1年1研究室の人事でセンターが出来上がっていきました。既に人員削減が始まっていて,発足当初の構想に反し,室長のみの研究室もあり,センター構成メンバーは14,5名を越えることはなかったように思います。
国立国語研究所(以後,研究所)では研究員全員の研究部会議が週一回開催され,センターはこれに加えセンター会議を毎週開き,各研究室,教材開発室,研修室の所属を越え,相互協力体制で当初の職務遂行に努めました。林大所長,野元菊雄センター長の時代です。教材開発室は所外の委員を多勢含む委員会で問題を議し,研修室は一年を期間とする長期研修と短期研修を運営し,夏季に東京と大阪で開催された短期研修には全国から受講生が参加しました。また,国内外の研究者の出入りも多く,常に賑やかなセンターという印象がありました。
1970年代から1980年代にかけては,限られた大学を除けば日本語教育の専門家のいない時代です。受講可能な教員養成講座があちこちにできたのは1980年代後半のことでした。このため,センターの初心者研修にも現職者研修にも津々浦々から受講生が集まりました。21世紀の現在,日本語教育の分野で活躍する人の多くがセンターの研修修了生です。長期及び短期研修の運営には所外の専門家の協力を仰ぎましたが,40名を越える研究所員の専門分野で研修内容の充実が図れたことも幸いなことでした。
センター発足の頃は,インドシナ半島からの難民受け入れが始まり,定住促進のための日本語教育が求められました。また,中国帰国者の定着促進のための日本語教育も必要となり,従来の留学生を中心とする高等教育のための日本語教育とは異なる,生活のための日本語教育の工夫が新たな課題となりました。更に,その後に提唱された留学生10万人構想によって,留学生受け入れのための教員養成が急務となり,公立私立大学に日本語主専攻,日本語教育主専攻の学科が設置されました。日本語教育多様化の時代に向かい,センターが果たした役割の一つには,年少者の日本語教育,大学における日本語教育,教員養成のための日本語教育等々の連絡協議会を順次開催し,関連機関連携のお膳立てをしたことが挙げられます。3年から5年かけると連絡協議会の成果が実り,協議会が自立してその機能を果たすプロセスは興味深いものでした。
当時,研究所ではサークル活動が活発に行われていました。同じ屋根の下にいても所属が異なると話を交わす機会は少ないのですが,サークル活動を通じて問題を共有し,親睦の時をもち,部署を越えた交流ができました。短い昼休みを活用してピンポンに興じる人,コーラスを楽しむ人,いろいろなサークル活動があったことが懐かしく想い出されます。
日本語教育ネットワーク:http://www.kokken.go.jp/nihongo/
1977年夏季短期研修(東京・国語研究所)
試験問題に取り組む受講生
『国語研の窓』は1999年~2009年に発行された広報誌です。記事内のデータやURLは全て発行当時のものです。