第38号(2009年1月1日発行)
国立国語研究所「病院の言葉」委員会(委員長:杉戸清樹所長)は,「『病院の言葉』を分かりやすくする提案」の中間報告をまとめ,昨年10月21日に報道発表を行いました。
この委員会は,医師・看護師・薬剤師など医療の専門家と,言語研究者や報道関係者など言葉の専門家24人からなり,平成19年10月から活動を続けてきました。今回の中間報告は,冊子にまとめたものを病院や医療系の学会・教育機関などに配付するとともに,国語研究所のホームページ(http://pj.ninjal.ac.jp/byoin/)に掲載し,12月1日までアンケートと意見公募を実施しました。
この提案は,国立国語研究所「外来語」委員会が平成14年から平成18年まで行った「外来語」言い換え提案を継承・発展するものとして企画しました。「外来語」言い換え提案は,役所などが使う分かりにくい「外来語」を,国民にとって分かりやすい言葉で言い換える工夫を提案したものでした。この活動を行いながら,難解な専門用語を分かりやすく伝える言葉遣いを広めるには,分野ごとにその分野の専門家と協力して活動を進めることが望ましいと考えるに至りました。一般の人々に専門的な概念を伝えるのは,専門家の役割であるからです。言い換えへの国民の要望が特に高い医療の分野を対象に実践したのが,今回の「『病院の言葉』を分かりやすくする提案」です。
医療の分野では近年,患者中心の医療が望ましいとの考えから,病院などの診療では,病状や治療法などについて医師・看護師・薬剤師など医療者が十分に説明をし,患者がそれを理解し納得した上で自らの医療を選択することが求められるようになっています。ところが,医療の専門家でない患者は,医療者の説明に使われる言葉が理解できないことがしばしばあり,自らの責任で医療を選択することが難しい現状があります。この現状を改善することを目指し,「病院の言葉」が伝わらない原因を探り,原因に応じた対策を考え,分かりやすい言葉遣いの工夫を検討しました。
委員会では,「病院の言葉」の実態を把握する調査をいくつか実施し,調査結果に基づいて議論を重ねました。その結果,言葉が伝わらない原因を三つに整理し,それらに対応させた三つの類型に分けて工夫をするのが良いという結論に達しました。これを図式化すると図1のようになります。
図1「病院の言葉」を分かりやすくする工夫の類型
まず,患者に知られていない「エビデンス」「重篤」などの言葉は,できるだけ使わず,日常語で言い換えることが望まれます(類型A)。次に,患者に言葉は知られていても,意味が分かっていない「炎症」「頓服(とんぷく)」や,知識が不十分な「治験」「副作用」などは,正しい意味や知識が伝わるように,明確に説明することが必要です(類型B(1)(2))。類型Bの中には,「血圧が下がり生命の危険がある状態」を意味する「ショック」が,「びっくりすること」の意味に誤解されやすいように,医療用語の意味が日常語の意味と混同されやすいものもあり,この場合は混同を避ける説明が求められます(類型B(3))。そして,患者が知らなかったり理解していなかったりする言葉の中には,最近登場し,今後の医療をよりよいものにしていくためには,医療者だけでなく国民一般も知っておくことが望まれる「セカンドオピニオン」「QOL」などのような言葉があり,これらはその概念を一般に普及させる努力が望まれます(類型C)。
類型ごとに,代表的な言葉を全部で57語取り上げて,患者に分かりやすく説明するための具体的な工夫を示しました。類型B(1)の例として扱った「腫瘍マーカー」の場合は,下の囲みのようになります。
まずこれだけは,少し詳しく,時間をかけてじっくりとの三つは,分かりやすい説明例で,説明にかけられる時間や,患者の状況に応じて使い分けることを想定して示しています。こんな誤解がある,効果的な言葉遣い,患者の不安の軽減を,ここに注意などは,説明を行う際に留意すべき点をまとめたものです。このうち,患者の不安の軽減をの項目は,図1の【言葉が伝わらない原因】の(3)に対応させ,特に患者の不安が問題になる言葉について,記述しました。
扱った語数は必ずしも多くはありませんが,医療者が患者に分かりやすく説明する際の指針として,多くの用語や,多様な医療場面で応用できる基本的な枠組みを,事例とともに示したものです。
回答されたアンケートは900件近くになり,この提案が参考になるかどうかについては,医療者の約53%が「非常に参考になる」,約44%が「ある程度参考になる」と回答しました。自由に書いてもらった意見では,「医療用語に対する医療者と患者との認識のずれが分かり有益だ」,「患者への説明の際に参考にしたい」,「医学教育や新人研修に役立てたい」などが目立ちました。医療者が参考にできる指針を提示するという目的を達することができたのではないかと考えています。
個別の語の記述については,改善点を指摘する意見もあり,それらを生かして修正を加え, 今年3月に最終報告をまとめ,勁草書房から市販本を刊行する予定です。
(田中 牧郎)
●語別の工夫の例
『国語研の窓』は1999年~2009年に発行された広報誌です。記事内のデータやURLは全て発行当時のものです。