第39号(2009年4月1日発行)
“泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けば幼い
二人して 故郷を捨てた 甲斐がない”
昭和12年にヒットした「人生の並木道」をはじめて聞いたのは,平成16年にサハリン州ポロナイスク市で調査をした時でした。この流行歌を歌ってくれたのは,日本人がサハリンの南半分に多く住んでいた時代に日本語を身につけたウイルタ人でした。日本の歌が好きで,この他にも「湖畔の宿」など,当時の流行歌を聞かせてくれました。
このウイルタ人は敷香町(現在のポロナイスク市)にある「敷香教育所」に通っていました。この教育所では,日本語とウイルタ語による授業が行われていました。日本語教育の現場でウイルタ語が用いられたのは世界的に見ても極めて珍しいことです。これは,ウイルタ人の民俗文化について研究をしていた川村秀弥先生がこの教育所で教鞭をとっていたことによります。またこの教育所には,ウイルタ人の他にニヴフ人も通っていました。その当時,日本語が彼らの間の共通語となっていたようです。
彼らの使う日本語には,いくつか特徴があります。例えば,「ツ」が「チ」に変わる現象(例:「クガツ」(9月)が「クガチ」になる)のように,ウイルタ語の影響を受けたものがあります。ウイルタ人が歌ってくれた「人生の並木道」にも例えば「ナクナ」が「ナグナ」になるように,カ行子音が濁音になる現象が観察されます。これは,東北地方や北海道の海岸部などで見られる特徴です。このように,現在までサハリンで使われ続けてきた日本語には,今でもその当時の特徴を垣間見ることができます。
しかしながら,この日本語が使える話者は,年々少なくなってきています。あと30年もすれば,その日本語を耳にすることができなくなることが予想されます。この流行歌を聞かせてくれたウイルタ人も,昨年他界しました。当時の流行歌が聞けるのは,今では調査で用いたテープだけです。サハリンに根付いてきた日本の言語文化がなくなってしまう前にすべきことは数多くあります。
(朝日 祥之)
『国語研の窓』は1999年~2009年に発行された広報誌です。記事内のデータやURLは全て発行当時のものです。