公文書の読点に使われている「,」(コンマ)について,今後,文化庁が見直しを考えているという話を聞きました。句読点の使い方には「きまり」があったのでしょうか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』17号(2004,国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として,若干の修正を加えた上で公開します。
国語における符号の使い方について決めているのは,昭和21年に文部省の発表した「区切り符号の使ひ方」(文化庁 編(1995)『言葉に関する問答集総集編』参考資料所収。文化庁のウェブサイト「国語施策情報」にも掲載)が唯一です。これは半世紀以上前のものとはいえ,現在でも公用文の作成や学校教育で標準的な記号の用い方として参考にするものです。ただし,これを原則として基本に据え,その解釈と運用については,国語の書かれ方としてどんな場合に何をよしとするのか,今後も適宜工夫するのがよいと思われます。
「主として縦書きに用いる記号」「主として(もっぱら)横書きに用いる記号」という大別がしてあります。しばしば横書きの読点が問題になりますが,それについては「テン(、)…の代りに,コンマ(,)…を適当に用ひる」と緩やかに書いています。これを根拠に公用文や学校で「横書きの読点はコンマで書くのがきまり」と規範や標準とされてきた面があります。
横書きは,報告や論説,公用文などの論理的で客観的な文章に限らず,日記や随想のような文芸や芸術的(主観的)で私的な文章にも及んでいます。散文ばかりか和歌や俳句なども,横書きで改行されたり分かち書きされたりすることがあります。今後は,点の種類をどちらにした方がよいか,内容によって判断すべきでしょう。
文章というものは,書き手の立場や態度,その内容や文体,想定される読み手とその立場など,様々な要件が混在します。もともと韻文には句読点を使わない伝統もあります。私信,日記,随想は読み手の便宜を最優先するとは限らず,標準的な表記の統一を必ずしも要しない,ともいえましょう。一方,新聞などの報道や公用文は,読み手の理解やその内容が,時によって利害を左右する優先条件なので,標準的な表記が厳格に求められます。その理解や作文のための教育もそれに準じる必要がありましょう。
例えば,会話引用の文末に句点を打つかどうか。句点を打つとしたらどこに打つか。「区切り符号の使ひ方」では,括弧の中がたとえ一語でも一文に完結していれば,句点を打ってから括弧を閉じます(例「ありがとう。」)。
実際には,句点を打たない以下のような散文の例があります。
文章の最後において便利な文は,他にもいろいろあって,その中でもとりわけ強力なのは左の一文ではないでしょうか。
「人さまざまである」
これを付ければどんな文章も突然,そしてすっと終わってしまいます。…(井上ひさし『にほん語観察ノート』,2002年,中央公論社)
また,新聞では以下のような符号が使われることもあります。
…昨日の代表選考は,公表されているルール,基準のもとでは順当と言えるのではないだろうか▼しかし同時に,アテネへの道を断たれた…
(朝日新聞「天声人語」2004年3月16日)
この▼は,句点「。」と改行の両方の機能を兼ね備えたもので,現にインターネット上では,同じ文章の▼が句点と1行空きの改行に置き換えられていました。紙面の限られた新聞コラムではこのような工夫がなされることもあるのです。
さらに現在でも,招待状等の改まった書簡では句読点を打たない習慣が伝承されています。これは,正式な漢文では句読点や返り点を全く使わないという習慣に基づくものです。一般的ルールとは異なる表記ですが,伝統や配慮に基づいていて,何より社会的にも十分認知されたものであるといえます。
(山田貞雄)