「ら抜き言葉」はかなり広く使われています。外国人に対する日本語教育でも教えた方がいいですか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』17号(2004、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
次の言葉のうち、「ら抜き言葉」はどれでしょうか。
一段動詞やカ変動詞の可能形が「~られる」ではなく、「~れる」となっていると、それらは「ら抜き言葉」と呼ばれます。この中で、「ら抜き言葉」は、(4)の「着られる」の「ら」がない「着れる」だけで、ほかはもともと可能形が「~られる」にはならない五段動詞です。
しかし、何を「ら抜き言葉」と呼ぶのかを実は知らない人、無意識に使っている人は、日本語を母語とする人の中でも少なくありません。
日本語教科書のほとんどは、動詞の可能形として、「ら抜き言葉」の「食べれる」「来れる」ではなく、「食べられる」「来られる」を紹介しています。そして、五段動詞の場合は「帰る→帰れる(kaeru + eru)」、一段動詞の場合は「食べる→食べられる(taberu + rareru)」というように、可能形の作り方を示しています。ところが、学習者は教える側の期待通りに覚えるとは限らず、気が付くと「食べれる」「来れる」を使っていた、というようなことがしばしば起こります。
学習者にしてみれば、動詞の種類によって活用形を覚えるのは面倒なので、簡単に済ませてしまうということもあります。たしかに、「帰れる」がいいのなら、「食べれる」も大丈夫と考えるのも無理はありません。
そして、教室外での言葉の使われ方も、学習者の言葉の学び方に大きな影響を与えます。「食べれる」や「来れる」を使う日本人は多く、特に若年層の多くはそれらを「正しい」と認識しています(文化庁国語課『平成27年度 国語に関する世論調査』、旺文社生涯学習検定センター「『第3回ことばに関するアンケート』集計結果」)。日本人に「おさしみ、食べれる?」などと問われることは多いでしょうし、学習者が「来れる」を会話で使っても、周囲の人に訂正されることはあまりないでしょう。
このような現実を反映し、「ら抜き言葉」を紹介する初級教科書も国内外で出版されています(坂野永理ほか『初級日本語 げんきⅡ』)。ただ、「この形もよく使われる」という紹介にとどまり、使うための練習はありません。
実は「ら抜き言葉」は、動詞によって使用率や「正しいかどうか」という意識に差があります。「食べれる」「来れる」などと違い、「考えれる」「信じれる」などは、使用する人も「正しい」と考える人も、それほど多くはないのです。その上、話し言葉に比べて、書き言葉での「ら抜き言葉」の使用率は高くありません。
そういった現状の中で、例えば、留学生がレポートに「…と考えれるが、…。」と書いた場合、読み手はどう思うでしょうか。この一言から、文全体が稚拙だという印象を受けてしまうかもしれません。先述した教科書には、必要な情報は提供するが、学習者が不用意に「ら抜き言葉」を使うことから生じうる、このような危険性は避けよう、という作成者の意図がうかがえます。
言葉の変化、地域差などはどの言語にも存在しますが、だれもがそれを自覚しているとは限りません。日本語学習者にしても、日本語についてはもとより、自身の母語についても変化や異なりを意識したことがないという人もいるでしょう。「ら抜き言葉」は教えない、と決めることも一つの方法ですが、これをきっかけに、日本語を学習する人もそれを助ける人も、自らの規範意識や言語の使用実態に気づき、何をどう使用するかを考えることもできます。そうすることは、双方にとって、言葉に対する理解を深めるための貴重な機会となるのではないでしょうか。
(金田智子)