わが子は、下の子は幼稚園、上の子は小学校で、まだ片仮名を習っていません。けれども、二人とも「ボール」や「ソース」といった言葉を書こうとすることはよくあります。そういう時、平仮名でも「ぼーる」「そーす」と書くように教えた方がいいのでしょうか。
日本語の決まりのひとつに、「外来語の表記」があります。これは、片仮名で外国語や外来語を書く時のルールです。そこでは、ア・イ・ウ・エ・オの長音を、長音符号(「ー」:明治期には「棒引き」とも言いました。)をつけて書く、と決めています。
言葉の表記の決まりとしては、別に「現代仮名遣い」があります。これは、特に明記していませんが、日本語を平仮名で書く時の決まりです。またそこでは、語種もいちいち限ってはいませんが、そこにある用例を見ると、外国語や外来語は含まず、和語と漢語だけが挙げられています。そこでは、オ列の長音だけは「う」と書くとあります。
これは、「お父さん」のような和語でも、「学校」のような漢語でも、「おとおさん」でも「おとーさん」でもなく、「おとうさん」と書く、「がっこお」でも「がっこー」でもなく「がっこう」と書く、という決まりです。
さらに伝統的な和語の仮名遣いの「ほ」や「を」に基づくものは「お」とし、結果的には、かつて多種多様で複雑だった長音(例コウダウ:公道・カウドウ:行動・カウダウ:講堂・クワウドウ:黄銅・クワウダウ:黄道)や、拗音の長音(例チヤウチヤウ:町長・チヤウテウ:長調・テフテフ:蝶々)の字音仮名遣いを、ある程度反映したうえで整理したものになっています。
つまり発音通りの表記を徹頭徹尾貫いているものではなく、仮名遣いを場合によって定めています。反対からみれば、語毎に異なる伝統的な仮名遣いをいちいち強いていない、ということができます。そういう中庸程度の折衷した表記原則といえるでしょう。
さて、このお子さんたちは、今はまだ平仮名しか習っていません。小学一年生も夏休みの後には、片仮名を使いこなしているのかもしれませんが、それまでの数年数箇月に、どうやって指導したら、その後の仮名遣いにも片仮名表記にも悪い影響が出ないか、と考えるのがよいでしょう。
一つは、「ぼおる」と書くのは、長音の性質、すなわち同じ母音が重なって連なっている音の性質を良く表わしていると言えます。そのことを片仮名表記では長音符号に置き換えている、と考えられるでしょう。
ちなみに、大人になってから、球技のサッカー“ボール”と、食卓のサラダ“ボウル”とを区別するようなこともあります。サラダ“ボウル”の場合、綴り字は「bowl」で、その「w」の部分を、口をわざと動かす「オ-ウ」という別の2種類の母音の発音として意識しており、単なる同じ母音の重複・連続で出来ている長音「オー」とは、明らかに区別しているのです。しかも外国語としての原語の綴りや発音は、外来語としての音の聞こえ、あるいは、発音、ひいては仮名で書くときの表記意識に至るまで、「ゆれ」としてさまざまな変容を生じさせるのが常のことです。
現実には、身の回りの商品名やアニメのタイトルや登場人物などといった、身ぢかな片仮名表記を、先に覚えてゆく子もいるでしょう。また、すでに「おとうさん」と書くんだよ、と平仮名によるオ列の長音の仮名遣いを習っていて、自発的に「ぼうる」と書く子も中にはいるかも知れません。今はまだ、その子は語種の違いを明確には識別していないかもしれません。それを、これは外来語だから、これは外来語じゃないから、と早い時期に説明をして、その場では分からせて書き分けを教えても、習得という観点からは、無理があるかもしれません。段々何となく気付いて身に付けばいい、といった自然な言語習得のステップの上げ方もあります。
結論からいえば、まだ習わない段階では、決まりはないのです。だから、自発的にでてくる表記を注意深くみて、(お子さんが「ぼーる」や「そーす」を書いていたら、そのまま放置することも含めて、)許容したり、今は待って後に譲ったり、決まりを示してすこし引っ張りあげたり、とさまざまな手をもって、相手を見ながらあの手この手で対処する。そのうちに、なにとはなしに語種の別を分かるようになり、なにとはなしに平仮名の仮名遣いを身に付け、なにとはなしに片仮名の棒引きも使いこなせるようになればよい、ということに尽きるということでしょうか。
大人になってから自分自身について顧みると、この点を誰かに言明されて納得し、習得したことがあったなどという鮮明な記憶がないのが普通でしょう。おそらく表記に関しても、自然な言語習得というステップが自動的に動いているのでしょうから、お子さんたちには、エスカレーターか、動く歩道のように、その成長や習得の動きに逆らわず、無事に乗っかって行ってもらいたいものです。