方言によって「素朴」「おだやか」「荒っぽい」など、それぞれのイメージがあるような気がします。どうなのでしょうか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』16号(2003、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
全国14地点で方言と共通語に対する意識を調査した結果によると、各地の方言について、地元の人の多くがあげたイメージは、次のようなものでした(佐藤和之、米田正人(編)『どうなる日本のことば―方言と共通語のゆくえ―』)。
広島、高知、福岡、鹿児島が「荒っぽい」「きつい」など、どちらかと言えばマイナスのことばで性格づけられている一方、京都と那覇では、「丁寧」「良いことば」などもっぱらプラスの評価がなされており、確かに方言によってイメージの違いがあることがわかります。京都は日本の、那覇市の首里はかつての琉球王国の中心地でした。こういったその土地の歴史的文化的な背景が、方言への評価に強く反映していると見られます。また弘前では、「荒っぽい」反面「表現が豊か」とされ、プラスかマイナスか、といった単純な見方では割り切れないとらえられ方がうかがわれます。
このほか、「使いやすい」「親しみやすい」「味がある」は、ほとんどの地点であげられています。これらは、方言がふだん話している身近なことばであること、母語であるために心情にぴったり合った表現ができること、などに由来するものと思われます。こうしたイメージは、地域によらず、方言一般に共通するものと言えるでしょう。
一方、地元の人が明確なイメージを抱いていない方言もあります。札幌、仙台、千葉、東京、松本、大垣、金沢では、多くの人が共通してあげたイメージがほとんどなく、あるとしても、「親しみやすい」などどの地域の方言にも見られるものばかりでした。
このようなイメージが薄い方言の多くは、その土地の日常生活の中で方言で話すことがそれほど必要と感じられなかったり、地元方言と共通語の違いが小さいため自分がその土地の方言を話しているということをあまり実感していない、といった状況にあるものと思われます。
以上は、地元のよく知っている方言についてのイメージでしたが、それ以外に、その方言自体をそれほどよく知っているわけではないけれど、なんらかのイメージを持っている、という場合もあるでしょう。
大阪の短大生を対象とした調査によると、実際にその方言を耳にしたことがある人は少数であるにもかかわらず、例えば、東北弁については「素朴」「なまりがある」など、九州弁については「豪快」などの、一定のイメージを持つ傾向が見られたということです(沖裕子「方言イメージの形成」『国文学』第63号)。
京都と那覇について触れたように、方言のイメージは、実際に話されている方言そのものの姿だけから生み出されるとは限りません。その方言の話されている土地に対するイメージや個人的な体験(例えば、たまたま知っているその土地出身の人の印象)などによって形づくられる面が多分にあります。また、特徴的な単語や説明語(東北弁に対する「ズーズー弁」など)からの連想や、よく耳にする固定化した印象の説明など、一定のステレオタイプ化された評価がそのまま受け入れられることも多いと考えられます。それがよく知らない方言となればなおさらです。
方言に対するイメージは、社会的にある程度共通のものが存在すると同時に、ひとりひとりの体験や方言に対する態度などによって形づくられる面もあるのです。
(三井はるみ)