外国人が日本語を学ぶときの「文法」はわたしたちが中学校や高校で習う「文法」と同じなのでしょうか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』15号(2002、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
結論からいえば、「現状ではかなり異なる」ということになると思います。実際、日本語教育の教科書には、中学校や高校で習う文法(学校文法)にはあまり書かれていないことがらが書いてあったり、学校文法の教科書とは異なる説明が書いてあったりすることが少なくありません。以下では、その背景にある二つのことがらについて説明します。
まず、「文法」は一つではない、ということがあります。
日本語を母語とする私たちは、子供のころ自然に身につけた日本語の文法にそって、日々日本語の文をつくり、人とコミュニケーションをおこなっています。しかし、それはあくまで一種の技能として日本語の文法が身についているということであって、私たちが身につけた日本語の文法が具体的にどのようなものであるかを考えるというのは、それとはまた別の問題です。「私たちが自然に身につけた日本語の文法とはどのようなものか」を考え、その結果を記述したものが、文法書などで目にする「日本語の文法」です。
ですから、同じ事実が文法書によって異なる形で記述されることも珍しくありません。例えば、動詞「書く」の命令形は「書け」、意志・勧誘形は「書こう」になりますが、これらの形がどのようにできているかについては、少なくとも二つの考え方があります。
表1 は学校文法でとられる説明です。この場合、「か」が変化しない部分(語幹)としてたてられ、「書く」「書け」はそれに語尾「く」「け」がついたものと説明されます。また、「書こう」は語幹「か」に語尾「こ」がついた形(未然形)に助動詞「う」がついてできたものと説明されます。
一方、表2 では、kak- を語幹としてたて、それに -u、-e、-oo という語尾がついて「かく」「かけ」「かこう」という形ができると説明されます。慣れないと少し違和感があるかもしれませんが、日本語教育などではこのような説明がよくおこなわれます。どのような説明が日本語学習者にとって理解しやすいかで、活用の説明もかわってくるわけです。
学校文法と日本語教育の文法が異なる背景には、学校文法では日本語の文法の一部しか扱わないということもあります。例えば、1の文と、日本語学習者がつくった2の文を比較してみてください。
1、2を見ると、「~することができる」という意味を表す形(可能形)がつくれるのは、「太郎が茶室に入る」のように、動詞が意志的な動作を表す場合だけで、「ピアノが部屋に入る」のように、動詞が他からの働きかけによる変化を表すだけの場合は可能形がつくれないことがわかります。
日本語を母語とする私たちにとっては、このようなことは自然に身につけていることであり、学校文法でも、「入(はい)れる」や「入(い)れられる」は「可能」を表すと言ってすませるのが普通です。しかし、日本語教育では、「どのような場合に動詞の可能形が使えるか」はたいへん重要な情報です。それがわからないと可能形を適切に使うことができないからです。
日本語を教えるということは、いまや専門家としての日本語教師だけの役割ではなくなっています。しかし、私たちが学校で教わる学校文法は、あくまで日本語を母語とする人むけに書かれた文法であり、そのままでは日本語教育には使えません。今後は、日本語教育において重要な「日本語の文法」に関する情報を、学校文法の中にうまく取り込んでいくことが必要になってくると思います。