外国語に入った日本語があると聞いたことがあります。いったいどのような語が外国語に取りいれられたのでしょうか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』15号(2002、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
英和辞典をひくと、“Kabuki(歌舞伎)” “tsunami(津波)” “shogun(将軍)” など、日本語が語源であると書かれている語があります。これらの語は、日本語の語形のままで英語に取りいれられているため、アルファベットで書かれていても、一見して日本語から入った語と分かります。日本語が英語に入った例として、分かりやすいものといえましょう。
その反対に、日本語から入った語ということが分かりにくい例もあります。たとえば、中国語に取りいれられた日本語がそれにあたります。中国語も日本語と同様に漢字を使います。また、中国語は、外来語であっても原則として漢字で書きます。そのため、もともと漢字で書かれている日本語が中国語に入り、中国語の発音で読まれるようになると、日本語起源ということが分かりにくくなるのです。
中国語における日本語の受容で、もっとも注目されるのは19世紀末から20世紀初めにかけての翻訳語の受容です。このころの中国は、日清戦争での敗戦により、近代化の必要性を痛感するとともに、日本に関心を持つようになりました。これは、日本が中国よりも先に西洋文明を吸収し、近代化に成功していたからです。そして、1896年以降、中国は留学生を日本に派遣するようになりました。
この留学生たちは、西洋の学問に関する専門書などを日本語から中国語に翻訳して本国へ送りました。その際、新たに翻訳語を作らずに、日本で作られた翻訳語をそのまま使うこともありました。こうして19世紀末から20世紀初めにかけて、中国語は日本語、とりわけ明治期に新しく作られた翻訳語を受容していったのです。
中国語が日本の翻訳語をそのまま取りこむことができたのは、日本で西洋の事物を翻訳するときに漢語を使っていたからです。明治の日本で漢語を翻訳語に使った背景には、当時の知識人たちにとって中国の古典を学ぶことが大切な教養とされており、その教養をもとに、当時の学問が成りたっていたということがあげられます。そのため、当時の知識人たちは、西洋の事物を翻訳するときにも、中国の古典にある漢語を翻訳語として借りたり、また、新たに漢語を作ったりしたのです。
以下、留学生たちによって中国に紹介された翻訳語を見てみましょう。
留学生たちによって紹介された翻訳語に「社会」があります。「社会」は、もともと中国の儒学書『近思録』(1252年)に「郷村の人びとが作った共同体」という意味で使われていました。これを、明治期に日本で英語 society の訳語に使いました。たとえば、『東京日日新聞』(1875(明治8)年1月14日)には「必ズ完全ノ教育ヲ受ケ高上ナル社会ニ在ル」のように「ソサイチー」というふりがなを付けたかたちで使われた例があります。
中国では、society の翻訳語として「群」「人群」という語が使われていましたが、留学生によって「社会」が中国に紹介されると、しだいに「社会」が広まり、「群」「人群」などの古い翻訳語に代わって定着しました。
ところで、「社会」は、もともと中国で使われていた語です。したがって、「社会」の中国語への受容は、まったく新しい語の受容ではなく、日本において加えられた翻訳語としての新しい意味の受容というべきものです。
まったく新しい語として日本の翻訳語が中国語に受容された例としては「哲学」があります。「哲学」は哲学者の西周が英語 philosophy の翻訳語として作った語です。それが、留学生によって中国に紹介され、定着しました。また、西洋音楽を導入するために、日本で新たに作られた「音符」「音域」「音階」「音程」といった音楽用語も中国に入り、定着しています。
以上見てきたように、日本と中国の近代化の背景には、両国の言葉の交流がありました。今後、近代の日本語を考えるにあたっては、日中両国の言葉の交流という広い視点から考えてみることも必要でしょう。