「めちゃめちゃ」「超」など強調の言葉が便利でつい使ってしまいますが、日本語の歴史のなかでは俗な強調言葉はどんなものがあったのでしょうか。
「めちゃめちゃ」や「超」は、「今日の話めちゃめちゃよかった」「その服超かっこいい」のように、後に形容詞や形容動詞などの状態性を持つ語が来て、その状態の程度の甚だしさを表す程度副詞です。この類には「とても」「非常に」「随分」など様々な語がありますが、「程度の甚だしさ」を表す点では似たような意味を持つため、その使い分けを説明するのは簡単ではありません。渡辺実(『国語意味論』)が挙げたように、「うれしい」などの情意性形容詞との結びつきや、比較構文での用いられやすさ、評価のプラス・マイナスなどの尺度での使い分けが考えられますが、それ以外にも、俗な言い方なのか硬い文章語なのかというような文体的特徴も、各語の役割分担に大きく関わっていると考えられます。
例えば①「去年の冬はめっちゃ寒かった」という例文と、②「去年の冬は非常に寒かった」という例文があったとき、「どちらがより若者っぽい会話文で、どちらがより書き言葉らしい文章か」と聞かれたら、迷わず①が会話文で②が書き言葉と答えるでしょう。
また、程度に限らず文意を強調する「本当に」「まことに」のような語がありますが、例えば公的機関の謝罪会見で「まことに(申し訳ありません)」を聞く機会はあっても「マジで(申し訳ないっす)」は聞かない、といったようにこれらにも文体差や場面差があります。
このような現代語の状況に鑑みれば、当然歴史的にも文体差があったことが想定されます。もちろん現代と違って資料が豊富にあるわけではありませんから、ある時代においてどのくらい「俗」であったかを詳しく測るのは容易ではありません。ただ、主として話し言葉に現れやすいか、書き言葉に現れやすいかくらいならばわかることがあります。ここでは、その一例として、「ほんに」という語の、江戸時代後期での使用状況を挙げましょう。
試みに『日本語歴史コーパス江戸時代編Ⅰ洒落本』を対象に、「ほんに」がどのくらい会話文で用いられるかを集計したところ、97%でした。これは類語「まことに」34%、「じつに」50%に比べても非常に高い値で、ほぼ会話文に限定されて用いられていることがわかります。次のように、威勢のいい江戸の勇み肌の男の会話文でも「ほんに」が用いられています。
芝のはてへいつてもナ。ずつと下谷のはてへいつてもホンニおやぶんのめへだけれども。どうらくものといふどうらくものにみそじやアねへが。たゞのひとりもしらねへなアねへ。
[ 芝の果てへ行っても下谷の果てへいっても、【ほんに】親分の前だけれど、道楽者という道楽者に、自慢じゃないがたった一人も知らないものはない。](『侠者方言』(1771)52-洒落 1771_01004, 33640、日本語歴史コーパスより。訳は市村、表記は一部変更した。)
「めへ」「じゃアねへ」「しらねへ」「なア」などのくだけた表現が用いられている、敬語のないぞんざいな発言です。現代語の「マジで」や「めちゃめちゃ」と同じくらいかどうかはわかりませんが、「まことに」や「じつに」に比べれば、「ほんに」がくだけた話し言葉であることは明らかでしょう。
ところが、そのくだけた語感がその後ずっと維持されたかというと、どうもそうではなさそうで、1905年発表の夏目漱石『吾輩は猫である』に次のような記述があります。
[「新道の二絃琴の御師匠さん」と「下女」が話している場面 ]
「えゝ、あの御医者は余程妙で御座いますよ。(…中略…)あんまり苛いぢや御座いませんか。腹が立つたから、それぢや見て戴かなくつてもよう御座います是でも大事の猫なんですつて、三毛を懐へ入れてさつさと帰つて参りました」「ほんにねえ」(…中略…)「ほんにねえ」は到底吾輩のうち抔で聞かれる言葉ではない。矢張天璋院様の何とかの何とかでなくては使へない、甚だ雅であると感心した。(…中略…)天璋院様の何とかの何とかの下女だけに馬鹿丁寧な言葉を使う。(伊藤整、荒正人(編)(1982)『吾輩は猫である(漱石文学全集)』による。表記は一部変更した。)
これを見ると、近世後期の江戸語ではあれほどぞんざいな発話に用いられた「ほんに」という語が、「雅」で「馬鹿丁寧」な言葉と「吾輩」に評価されています。この語に対する認識が、130年の時を経て大きく変わったのではないかということを伺わせます。なお近代以降の東京語では「ほんに」は衰退し、代わりに「本当に」という新しい語が台頭して、現代に至ります。
さて、例に挙げられた「めちゃめちゃ」は、1996~2018年に放送されたフジテレビのバラエティ番組『めちゃ2イケてるッ!』(https://www.fujitv.co.jp/MECHA/、2022年12月14日閲覧)のタイトルにもなっており、少なくとも私が高校生だった90年代後半頃には「俗語」だったことが確認できる語です。その頃「超ベリーバッド」の略で「チョベリバ」という表現も流行りました。「めちゃめちゃ」や「超」は、一体いつまで「俗」で「若者」風の言葉でいられるのでしょうか。私も大人になり、最近では「若手」と言ってくれる人もだんだん少なくなってきましたが、『めちゃイケ』を見ていた世代としてはこの経過から目が離せません。
そもそも「めちゃめちゃ」にも、「めちゃくちゃ」「むちゃくちゃ」「めっちゃ」「むっちゃ」「めっさ」など、類似する表現が複数あります。最近の大学生の会話やバラエティ番組での若い人の発言では、「めっちゃ」をよく耳にする印象があります。もしかすると、すでに「めちゃめちゃ」は少しずつ大人びてきているのかもしれませんし、あるいは役割分担をしつつもまだ「若者言葉」であり続けているのかもしれません。これらの表現が一体今どのような役割分担をしていて、どう変わっていくのか、それ自体も史的変遷として興味深い問題です。