百貨店の店内放送で「横浜からお越しの松坂様、お近くの売場までご連絡ください」という放送がありました。忘れ物の呼び出しだと思ったのですが、よく考えてみると、個人名を他の客にもさらすことになるので、プライバシーの侵害になりませんか。
百貨店は、スーパーやコンビニ等と異なり、高級品を扱い、顧客に満足感を与える接客を重視する業態なので、お客に不快な感じを与えないよう、特にことば遣いにも気を配っています。案内放送の時のプライバシーへの配慮も当然していることでしょう。そう考えると、おそらく、具体的な名前を入れたその店内放送は、「松坂」という客への連絡ではなく、隠語を使って店員への連絡を行うものだったのだと思います。もし一般のお客に向けた連絡だったとしたら、迷子の案内等を除き、「おもちゃ売り場で〇〇をお買い上げのお客様、お近くの売場までお越しください」のようにすることでしょう。
隠語とは、2人以上が何かを隠すための意図で、人工的に作った言葉のことを言います(木村義之「隠語の世界」)。百貨店には、お客に聞かれるのが好ましくないやりとりを別の表現に言い換えて社員のみに伝える隠語が多く存在します。問いの「横浜からお越しの松坂様、お近くの売場にご連絡ください」という個人名が入った放送は、「横浜」の部分が用件、「松坂」が対象の社員名を表し、例えば「お客様からクレームが来た(=横浜)ので、担当の松坂さん、すぐ来てください」というような意味を伝えている可能性があります。現に、西武百貨店では、火事などの緊急事態の発生を社員に伝える「ニシタケマモル」という個人名を模した隠語があるそうです。
この他にも、店員間で使われる隠語が様々あることが知られています。百貨店業界の用語をまとめた米川明彦『集団語の研究 上巻』によると、そのような隠語をジャンルごとに分けると、9種に分けられます。例えば、食事・休憩に関する語、トイレに関する語、客に関する語、商品・販売に関する語、数などの分類があるとされています。これらの隠語のジャンルから見える特徴は、業務中に、お客様に知られずに伝えたい重要度・頻度が高い内容が隠語になることが多いということです。
(1)だと、店員間の会話で食事・休憩に行くことを客に分からないようにするために隠語にします。例えば、あるお店では、「食事・休憩」を「いせ」と言い、「いせ頂きます」のように使っています。昼にとる休憩なら「昼いせ」、夕方なら「夕いせ」と言うそうです。この「いせ」は食事・休憩の言い方の一例で、お店によっても異なります。次表に、よく使われる単語のお店ごとの違いを示しました。
さらに同じ系列店でも店舗によって違う言い方をすることもあります。表の松坂屋の「トイレ」欄には「新閣/中村」と、2つの言い方を挙げています。これは、同じ松坂屋でも、大阪店ではトイレを「新閣」と呼び、名古屋店では「中村」と呼ぶという違いを反映しています。これらの言い方はでたらめに作られているのではなく、多くが連想や洒落等によってできています。例えば、高島屋の「五八様」は、客は客でも「お得意様」を指すのですが、「五八」=「五×八=四十(しじゅう)」=「始終(来る)」=「お得意様」という連想で作られたと言われています。
ちなみに、近年では百貨店業界の生き残り競争も激しく、閉店や統合を迫られることもあります。その時にはこういった言葉はどうなるのでしょう。一つの例として2007年に「大丸」と「松坂屋」が統合した「大丸松坂屋」があります。この両社の経営統合にあたっては、両社社員の用語の違いを統一する試みが行われました。先に紹介したような隠語も含め、170もの用語を対照させて収めた用語集が作られたと言います(青木均「大丸と松坂屋の経営統合」)。消費者である私達の目に触れることは少ないですが、社会の変化に伴い言葉が大きく変化した興味深い事例と言えるでしょう。