「結果が/を出せる」のどちらが自然ですか。
結論から言うと、「結果が出せる」の方が自然です。ただし、これは国語・日本語の教科書の「規範」(文法のルール)に従った場合です。つまり、日本語の文法としては「を」ではなく、「が」を使うのが正しいけれども、実際には話し言葉でも書き言葉でも「が」と「を」どちらの表現も観察されるのです。試しに、書き言葉の実際の使用例を収録した『現代日本語書き言葉均衡コーパス』を調べると、「結果が出せる」が21件、「結果を出せる」が32件出てきます。この結果を見るだけでも、正しいはずの「が」よりも「を」の方が実際には多く使われていることが分かります。このように、同じことを表すのに複数の表現が存在していることを「言葉のゆれ」と言います。つまり、「結果が/を出せる」のような可能形における目的語の助詞の使い方は、言葉のゆれの状態にあると言えます。
実は、この格助詞「が/を」のゆれは可能形に限ったことではなく、他に「〜したい」などの願望形、「好き」、「嫌い」、「分かる」、「出来る」、「欲しい」のような述語を使う時にも見られます。日本語では、通常「りんごを食べる」のように、目的語を示す時に格助詞「を」使いますが、これらの動詞は「が」を使う珍しい例です。つまり、「結果が/を出せる」の現象をもう少し広く捉えると、目的語が格助詞「が」で示されるはずの動詞において、代わりに「を」が使われているという言葉のゆれが現代日本語で見られるとまとめることができます。
言葉のゆれは、世界中の言語に見られるもので、発音に関するもの、文法に関するものなど、これまでに様々な現象が報告されています。これらの共通点として、言葉のゆれはそれぞれ色々な要因の影響を受けるということが言えます。格助詞「が/を」のゆれについても色々な要因が報告されています。例えば、話者・著者の生年、性別、どのような状況(場面・目的・相手など)で使うか、文法的には「結果が/を出せる」と「結果が/をしっかり出せる」のように、目的語と動詞との距離などによって、「が」が使われやすい、「を」が使われやすいなど現れ方が変わってきます。もちろん、動詞の種類によっても現れ方は変わります。実は、格助詞のゆれは「が」と「の」の間でも起こっていて(例、太郎が/の買った本)、「が/を」の場合と同じような要因の影響を受けていると言われています(南部智史「定量的分析に基づく「が/の」交替再考」)。
更に、格助詞「が/を」のゆれは時間と共に変化しています。図1は、先ほどの『現代日本語書き言葉均衡コーパス』を使って「が」と「を」の使われ方と時間の流れとの関係を表したものです(佐野・南部「コーパスを用いた現代日本語における「が/を交替」の実証的研究」)。
縦軸は「が」が使われる比率(%)、横軸は著者の生年代(右に行くほど若い)を表しています。図を見ると、「が」の比率が右肩下がりになっています。つまり、生年が若いほど「が」ではなく、「を」をよく使うという傾向を示しているのです。ですから変化としては、文法的には「が」を使うのが正しいけれども、そうではなく「を」を使うという傾向が、徐々に強まってきていると言えるのです。このように、色々な要因や条件によって使われ方は異なりますし、しかもそれが変化しているので、どちらが自然かを決めるのは実はとても難しい問題ですし、もしかしたら決められないかも知れません。
ではなぜこの格助詞「が/を」のゆれが起こったのでしょうか。実ははっきりとした理由はまだ分かっていないのですが、一つの可能性として以下のようなことが考えられます。言葉の一般的な特徴として、あまり使われない単語はその単語が持っている独自の(珍しい)特徴を失って、よく使われる単語の(よくある)特徴を持つように変化するということがあります。
例えば、英語の動詞は、よく使われる一部の動詞が元々の特徴を保って不規則動詞として残り、それ以外のあまり使われない多くの単語は特徴を失って、共通の語尾変化を示す規則動詞に変化したと言われています。これは文法だけではなく、発音などにも見られます。日本語(共通語)の名詞アクセントの中で、例えば畑を耕す「鍬」や穀物の「稗」は本来「クワ」や「ヒエ」のように2拍目が高いのですが、最近は「クワ」や「ヒエ」のように1拍目を高く発音する人が増えています。これらの名詞は、最近の日常生活ではあまり使う機会がないため、元々単語が持っている「2拍目が高い」という特徴を失って、よくある「1拍目が高い」という特徴に変わっていると言われています(上野善道「母は昔はパパだった、の言語学」pp.60-62)。
これを元に格助詞「が/を」のゆれを考えてみると、先ほど説明したように、日本語では目的語の助詞に「を」を付けることが多く、「が」を付けることはいくつかの動詞に限られます。そのため、目的語に「が」を付けるという特徴はあまり使われず、結果としてこれが失われて、よくある基本的な「を」を使うように変化しているということが考えられます。