日本語教育では「ません」と「ないです」のどちらを教えたらよいですか。
日本語教科書では「ません」が紹介されていますが、実際の日常会話では「ないです」の使用が圧倒的に多いです。
日本語の述語の否定形には、「〜ません」(マセン系)と「〜ないです」(ナイデス系)の二つの形式があります。二つの形式があるのは丁寧体(デスマス体、敬体)だけで、普通体(ダ・デアル体、常体)には「〜ない」しかありません(表1)。
このような丁寧体の二つの形式について、Backhouse(The Japanese language: an introduction, Oxford University Press Australia, Melbourne.)は「the basic rule is to add desu to the informal forms.」(同 p.170)と述べ、活用規則、および、スタイルの観点から、ナイデス系が基本であるとしています。そして、その代替形(alternative)であるマセン系については、「ややあらたまった(more formal)」表現であると指摘しています。しかし、これらの指摘は理論的な考察であり、言語使用の実際を観察したものではありません。
田野村忠温(「丁寧体の述語否定形の選択に関する計量的調査―「〜ません」と「〜ないです」―」)は、4年分の新聞記事での用例を調査し、すべての品詞において、マセン系の用例数がナイデス系を大きく上回っていたことを報告しています。しかし、普通体が基本の新聞記事に「〜ません」や「〜ないです」といった丁寧体があらわれるのは、「主として、通常の記事における談話の引用、インタビューや座談会の記事、投書など」(同 p.53)に限られ、さらに「話しことばを文字化した記事の場合、もとの表現がそのまま記録されているとは限らない。記事化の際に省略・補足・言い換えなどの操作が加えられている可能性がある」(同 p.53)ことから、実際の話しことばを忠実に反映しているとは限りません。
野田春美(「否定ていねい形「ません」と「ないです」の使用に関わる要因―用例調査と若年層アンケート調査に基づいて―」)は、シナリオ、自然談話などでの用例を調査し、シナリオではマセン系の割合が高いのに対して、自然談話ではナイデス系の割合が高いことを指摘しています。また、若年層を対象に実施したアンケート調査では、動詞以外の品詞ではナイデス系の許容度が高いのに対して、動詞ではナイデス系の許容度が低くなることを指摘しています。
小林ミナ(「日常会話にあらわれた「〜ません」と「〜ないです」」)は、日常会話での用例を調査し、すべての品詞においてナイデス系の用例数がマセン系を上回っていることを指摘するとともに、(1)のように引用節の外ではナイデス系が、引用節の中ではマセン系が使われやすいという使いわけが見られたことを指摘しています( [ ] で囲まれた部分が引用節)。
(1) 担当者は [ 我が国にはありませんねぇ ] のように他人ごとで、熱心に検討しないです。
以上の先行研究からわかるのは、「マセン系のほうが規範的、標準的であると意識されているが、実際の話しことばではナイデス系のほうがよく使われている」という意識と使用の実態です。
では、現在の日本語教育において、マセン系とナイデス系はどのように扱われているのでしょうか。(以下では紙幅の関係で、動詞にしぼって見ていきます。)
表2は、動詞のマセン系とナイデス系について、主な教科書での扱いをまとめたものです。この表から、日本語の教科書で動詞否定形が初出される際には、マセン系だけが扱われ、ナイデス系は扱われていないことがわかります。
実際にはよく使われているナイデス系が、日本語の教科書でまったく扱われていないのには、いくつかの理由が考えられます。その一つに「マセン系のほうが、規範的、標準的である」という意識が働いている可能性があります。
一般的に、言語教育、外国語教育において「規範的、標準的であるとされる表現」と「そうでない表現」のどちらを扱うべきかは、なかなか難しい問題です。「そうでない表現」の「規範や標準からのハズレ具合」、「使った場合に生じるリスク」「学習者の志向」などによって判断は異なりますし、教師、教育機関、学習者の言語観、言語学習観などによっても、さまざまな選択肢があり得るからです。
しかし、ここで取りあげた動詞のマセン系とナイデス系について限っていえば、教科書でナイデス系をまったく扱わないことには疑問が残ります。少なくとも、実際の話しことばに触れる機会がある学習者や日常会話の力をつけたい学習者にとっては、マセン系よりもむしろナイデス系のほうが重要であるからです。
このように「どちらを教えるべきか」を考えるためには、「言語使用の実態」をまずは把握し、その上で、自らがどのような言語観、言語学習観に立つのかを踏まえる必要があります。
2019.06.21 (注)著者の申し出により、一部を修正しました。
2019.07.01 (注)表2の注釈を追加しました。