むかしの落書きには、どんなことが書かれているのですか。
今もむかしも人々は落書きをしたい衝動に駆られるようで、古い建築物の壁や柱などに落書きが残っていることがあります。国宝や重要文化財となっているような建物に落書きが書かれている事例もあるのです。
たとえば、奈良時代の初めに再建された法隆寺の五重塔には、「難波津(なにわづ)の歌」の落書きが書かれています。「難波津の歌」とは、『古今和歌集』仮名序で、紀貫之が「手習いの歌」として紹介している
「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり いまは春ベと 咲くやこの花」
という歌です。
この「難波津の歌」は、法隆寺の落書きだけでなく、発掘調査で出土する木簡に書かれている例もあります。しかも、7世紀末の藤原京や8世紀の平城京といった都からだけでなく、徳島県徳島市の観音寺遺跡から出土した7世紀末の木簡にも書かれていたことが確認されています。つまり7世紀末から8世紀にかけて、この歌が相当な勢いで各地に広まり、手習いの歌としてよく知られていたことがわかります。
当時はまだひらがながありませんでしたので、漢字の音を借りて日本語の音を表記する「万葉仮名」が用いられ、「奈尓波都尓佐久夜己乃波奈(なにわづにさくやこのはな)…」というふうに書かれていました。古代においては、役人になろうとする人たちが必死で文字を学ぼうとしていました。落書きや木簡からは、そうした人たちが歌を通じて文字と格闘していた様子がうかがえます。
時代は下って16世紀後半、戦国時代頃になると、観音信仰の広まりとともに各地の観音堂に、参詣者たちが落書きを書くようになりました。その多くは、そこを訪れたしるしに自分の名前や居住地を書き付けたものですが、やはり歌を書き付けたものもあります。
不思議なことに、各地の観音堂には、同じ歌が書き付けられています。
「書きおくもかたみとなれや筆のあと我はいづくの土となるらん」
という歌です。この歌は、歌集に収められているような有名な歌ではなく、なぜか観音堂の落書きのみにみられる歌なのです。
自分の書いた文字が、形見となって残ってほしい、自分はどこで最後を迎えようとも、といった意味の歌です。この当時の人々は、生きた証として自分の書いた文字を残すために、観音巡礼をしながら、各地の観音堂で落書きの歌を書き付けていたのです。
観音巡礼に訪れた人たちは、下級の武士など、文字にあまり習熟していない人たちでした。彼らはこの歌を覚えて、訪れた観音堂の壁に書き付けていたのです。それは、歌というよりも、呪文のような感覚だったのではないでしょうか。
江戸時代初期の狂歌に、
観音の堂にうちふだ楽書を形見に残す諸国巡礼(池田正式)
という歌があります。これは観音巡礼に明け暮れる人々の様子を見事に活写した歌です。巡礼者たちは、「形見に残す」、つまり生きている証を残すために落書きを書いたと、ここでは歌っています。
「落書」ではなく「楽書」と書かれているのが面白いですね。もともと中世には「落書(らくしょ)」という言葉があり、一般的には「匿名の投書・掲示等。時の政情や社会風潮を風刺・批判したり、犯罪の告発、特定個人に対する攻撃などの目的で作成し、公衆の目に曝すために、人目につく場所に落としたり、門や壁に掲示するなどしたもの」(『岩波日本史辞典』)を意味しました。世相を風刺・批判したものをとくに「落書」と呼んでいたのです。いまでいう「落書き」とはちょっとニュアンスが違いますね。私たちがイメージする落書きは、むしろ「楽書」と書くべきかも知れません。
さて、ここまでみてくると、同じ落書きといっても、戦国時代の人々が観音堂に「かたみの歌」を書き付ける行為は、いまの不心得な人たちが観光地でいたずら書きをする行為とは、ちょっと意味が違う感じがすることに気づくでしょう。自分がそこを訪れた証、もっといえば生きている証に、自分の筆跡を残すために文字を書き付けたのです。おそらく、文字という表現手段を獲得したばかりの人たちが、文字に特別な力を感じて、自分の身代わりに文字を書き残そうとしたものが、この当時の落書きの意味だったのかも知れません。