Vol. 14-1 (2024年11月公開)

アイヌ語は大昔から日本列島で話されていた言語ですが、日本語とはまったく違う言語で、その系統は不明です。アイヌ語は、紀元1000年ごろに本州から北海道に、1300年ごろに南樺太に、さらには1500年ごろに千島列島に伝播してきたため、大きくその三つの方言に分かれています。どの方言も母語話者がすでにいませんが、最近まで残っていたのは北海道アイヌ語でした。狩猟採集民であったアイヌ人が日本とロシアの近代的な植民地主義の影響を受けた結果、千島アイヌ語は20世紀初頭に、樺太アイヌ語は1990年代に消滅してしまいました。
実は、いま使われている世界の約6,000*の言語のうち、半分が文字を持たず、また文字を持つ言語でもその多くが文字を獲得したのは19〜20世紀のことです。アイヌ語の記録には17〜18世紀から仮名、ローマ字、キリル文字(ロシア語など)のさまざまな表記が使われてきました。アイヌ語は固有の文字を持たないのにもかかわらず、口伝えされる伝統文学(口承文芸)の記録が盛んに行われていたので、最も豊富な文字・音声資料が残っている少数言語といってよいでしょう。ただし、資料が多いのは北海道アイヌ語だけであって、千島アイヌ語の資料はほとんど残されていません。
* 数え方によって異なります。
1604年に将軍徳川家康より北海道(蝦夷)が封土として松前藩に与えられ、アイヌ人との交易を行うために、日本人のアイヌ語通訳者(蝦夷通詞)が使われていました。最も有名な蝦夷通詞は上原熊次郎であり、彼は世界で最初に出版されたアイヌ語辞典『もしほ草』(2,000語と口承文芸のテキスト)を編纂しました。
鎖国になった江戸時代(1603-1868)には、ほとんどの外国人が日本に入れず、外国人による北海道アイヌ語の記録がほぼありませんでした。しかし、ロシアや西洋の諸国が東方への拡張にますます関心を持つようになったため、キリル文字とローマ字で書かれた千島アイヌ語や樺太アイヌ語の記録が多少残っています。最も早いのは、ロシア皇帝が計画した第二次カムチャツカ遠征(1733-1743)に参加したロシア人の探検家Krasheninnikovによって作成された297語の千島アイヌ語リストです(1755)。フランスの海軍士官Lapérouseの航海記には160の樺太アイヌ語が含まれています(1797)。Kruzenshtern率いるロシア初の世界一周航海(1803-1806)の共同指揮官Rezanovによって編纂されたリストには218語がありました(1805)。同じKruzenshternの遠征で収集された資料に基づいて、Davydov(Rezanovと共に後述の文化露寇の当事者)によって1,987項目のロシア語・樺太アイヌ語辞典が出版されました(1812)。
また、私がロシア国立海軍公文書館で新たに発見した北・南千島アイヌ語の用語集(230語)があり、これは1811〜1813年に日本で捕虜になっていたV. M. Golovnin(1776-1831、以下ゴローニン)が記録したものだったのです(図)。この新しい資料に基づき、南千島アイヌ語は、北千島アイヌ語よりもむしろ北東部の北海道アイヌ語に近い語彙的類似性を持つと証明できました。では、この用語集はどのような状況で記録されたものだったのでしょうか。


ゴローニンは、ロシア海軍の士官で航海者でした。1806年にダイアナ号の指揮を任され、北太平洋を調査するための世界一周航海(1807-1809)を行いました。当時、ロシアは千島列島の北から数えて16島を支配し、そこには約150人のアイヌ人が住んでいました。また、日本支配下の南千島の4島(国後島、択捉島、色丹島、得撫島)には、よりたくさんのアイヌ人が住んでいました。
ゴローニンは1811年にダイアナ号を指揮して千島列島を航海し、まず羅処和島などロシア支配下にあった7島の調査を終えました。その後の7月11日に彼と6人の乗組員、および千島アイヌ人の若者アレクセイは薪水の補給のために立ち寄った国後島で松前藩に捕まり、函館と松前で2年間捕虜として過ごしました。
ゴローニンが捕虜にされた理由は、Rezanovがロシア外交官として1804年に長崎に来て通商を求め拒絶された後、部下のKhvostovとDavydovに日本への武力行使を命じたことにあります。彼らは南樺太や利尻島の漁業拠点を攻撃し、択捉島では南部藩や津軽藩の駐屯地を打ち破り、数名の日本人を捕虜にしたのです。この事件を文化露寇(1807)と言います。
さて、ゴローニンはいつ、この用語集を書き留めることができたのでしょうか。捕虜生活の中では紙がほとんどなく、自由もなかったので、それは不可能だったでしょう。
用語集を編纂する可能性があったのは、捕虜になる数週間前だったと考えられます。1811年6月19日、ダイアナ号は択捉島近くにあり、ゴローニンは島を調査させました。そこで日本人や羅処和島出身の北千島アイヌ語を母語とするアイヌ人と出会い、その中に前述の若者アレクセイがいました。彼は、ロシア語が堪能だったことに加え、択捉島での1年間の経験から南千島アイヌ語も知っていました。そして、その後に計画されていた得撫島の調査を手伝うためにダイアナ号に招かれました。ゴローニンがアレクセイから北・南千島アイヌ語の用語集を記録できたのは、この時期だったと思われます。
重要なのは、ゴローニンたちの解放交渉はアイヌ語を媒介とした2段階通訳で行われたことです。交渉の中で、捕虜のアレクセイはロシア語からアイヌ語への通訳者として、前述の『もしほ草』の編纂者である上原熊次郎はアイヌ語から日本語への通訳者として働くことになりました。このようにして解放交渉の初期にゴローニンと日本人の間で、アイヌ語がリンガ・フランカ(共通語)として使われていました。ゴローニンが松前藩の捕虜になった後にロシアのダイアナ号に拿捕されカムチャツカに連行された日本人、高田屋嘉兵衛の働きなども別にあり、長い交渉の末、1813年にゴローニンたちは、文化露寇の際に捕虜になった数名の日本人商人との交換で解放されました。アイヌ語の知識が交渉の一助となり、紛争の平和的解決につながったのです。
ゴローニンはロシアに帰国後、捕囚生活を描いた『日本幽囚記』を1816年に出版し、日本人を「知識豊かで愛国的」と評価しました。書物はすぐに多くの外国語に翻訳されました。特にヨーロッパでは、情報の少ない鎖国下の日本についての重要な資料として、大きな影響力を持ちました。
Anna BUGAEVA。サンクト・ペテルブルグ生まれ。東京理科大学教養教育研究院神楽坂キャンパス教養部准教授。専門はアイヌ語学・北東アジアの言語、言語類型論。編著書に『アイヌ語研究の諸問題』、Handbook of the Ainu Language、Stories in the Nivkh language by N. I. Kauna がある。国際誌などにアイヌ語の文法に関する多数の論文を執筆。