Vol. 6 (2019年9月発行)
国立国語研究所『使役交替言語地図』(http://watp.ninjal.ac.jp/)
(地図データ ©Google、INEGI)
ある言語をほかの言語と比較すると、その言語に関する理解を深めることができます。ほかの言語と比較することで、それまでは思いつかなかった新しい研究課題に気が付いたりします。また、ほかの言語を見て、日本語と驚くほど似た現象があることに気づき、その現象の特徴が再認識されたりします。日本語に特有と思われていた現象も実際にはそうではないことが分かることもしばしばです。
国立国語研究所の理論・対照研究領域では、日本語をほかの言語と比較対照することによって、日本語の性質を明らかにしようとしています。また、日本語の分析を通して、言語一般の理解に貢献しようとする研究も行われています。研究は多岐にわたっており、日本語の音声に関するものから文法・意味に関するものまで様々です。また、比較の対象も中国語、英語といった話者数の多い言語のほか、少数話者の言語にまで及んでいます。そのように多くの言語を見ることで、言語の多様性と共通性がより深く理解でき、その中に日本語を位置づけることができると考えているからです。
「対照言語学の観点から見た日本語の音声と文法」プロジェクト(以下、対照言語学プロジェクト)は、図1のようにいくつかの班に分かれて活動を行っています。音声研究班(窪薗教授)では、語と文のプロソディーを中心とした研究が行われています。もう1つは文法研究班ですが、これはさらに、名詞修飾班(パルデシ教授、窪田准教授)、とりたて表現班(野田教授)、動詞の意味構造班(松本教授)の3つがあります。いずれも日本語に関する観察を出発点にして諸言語の研究をしている点が特徴です。たとえば名詞修飾班では、「トイレに行けないコマーシャル」のように英語などにはそのまま訳せない名詞修飾表現について、諸言語でそのような表現がどの程度可能なのかを研究しています。とりたて表現班では、「さえ」「すら」などのとりたて助詞に相当する他言語の表現を、日本語と比較しながら研究しています。
これらのプロジェクトは国語研の他のプロジェクトと連携し、国際的アドバイザリーボードの助言を受けながら行われています。諸大学の研究者と協力しながら、分析結果を提示することで成果を上げようとしています。
対照言語学プロジェクトでは、研究成果を様々な形で公開しています。国内向けには、年に一度Prosody &Grammar Festaという発表会(写真1)を開き、4つの班の成果を共有しています。また、班ごとにシンポジウムなどを開いています。
また、国際シンポジウムや英語の書籍出版の形で、研究成果を国際的に発信することを重視しています。そのような形によって、日本語に関する研究が、国際的な規模での言語理論の発展に貢献できると考えているからです。
対照言語学プロジェクトでは、その成果に基づいて、ムートン社やオックスフォード大学出版局などの海外の出版社から書籍を出版してきました。代表的なものは写真2に示したとおりです。今後もこのような形で成果を発表していきたいと思っています。
ここでは、動詞の意味構造班の対照研究の1つの例として、移動動詞に関する研究を紹介します。
動詞は出来事を表すのに使われる品詞です。出来事をどう表現するかについて、諸言語には2つの違いがあります。まず、言語は、限りある形式を使って複雑な出来事を表現するものなので、出来事のどの側面に注目して表現するのか、選択を行なうことになります。その際、何を表現して何を表現しないかには言語による違いがあります。たとえば、しばしば指摘されるように、日本語の多くの方言には「あげる」と「くれる」の区別があり、物のやりとりが話者やそれに近い人に向けられたものなのか、そうでないのかを、動詞で区別して表現します。このような区別は日本語のほかインドの一部の言語に見られますが、他の多くの言語には見られません。何に注目するかが言語によって違うのです。
また、出来事の様々な側面を文のどの要素で表現するのかが、言語によって異なる場合があります。たとえば、日本語で「蠅が天井にとまっている」と動詞を使って表現するところを、英語ではThere is a fly on the ceiling と、前置詞を使って言い表します。反対に、英語で動詞を使って表す内容を、日本語では副詞を補って表す場合もあります。たとえば笑い方の表現がそうです。英語ではThe lady was giggling と言うところを、日本語では「その女の人はくすくす笑っていた」のように言います。このように、同じ事象を言語化する場合でも、そのどの側面を表現するのか、またそれをどのような品詞で表現するのかは、言語によって変わってくるのです。
このような言語間の違いがはっきりと表れる事象に、空間移動があります。人や物が空間を移動するのを言語がどのように表すのかです。
たとえば、写真3に撮された移動事象を考えてみましょう。英語と日本語の話者なら、この事象を次のように表現するでしょう。
A man ran up the stairs toward me.
男の人が階段を駆け上がって来た。
この2つの文を比べると、いくつかの違いがあることがわかります。まず、日本語では〈上の方向へ〉という移動の経路を「上がる」という動詞で表していますが、英語ではupという副詞で表しています。また、日本語では〈こちら側へ〉という話者に対する方向性が、動詞「来る」で表され、「(駆け)上がる」と一緒に複雑な述語を作っています。それに対して、英語ではそれがtoward meという前置詞句で表されています。日本語では動詞が、英語では副詞・前置詞が活躍しています。
一般に、移動の経路については、それを動詞で表す言語と、それ以外の要素で表す言語があると言われており、日本語は前者であると主張されています。また、話者に対する方向性(ダイクシス)については、それを表現することが多い言語とそうでない言語があるとされ、日本語は前者であるという主張があります。
対照言語学プロジェクトでは、このような主張を検討するため、実験調査を行ってきました。日本ではあまり行われてこなかった、ビデオ発話実験という手法です。これは、スクリーン上に短いビデオ映像を一定順序で提示し、それを実験協力者(被験者)に自分の言語で表現してもらうというものです。同じ場面を表す言語表現を諸言語で比較できることから、対照研究に適した研究手法で、欧米ではこの手法で移動事象の言語表現について調べる研究がすでに行われています。対照言語学プロジェクトではこの手法を用いて、表1に示した言語に関して調査を行いました。これは、国内外の大学にいる様々な言語の研究者との連携によらなければできない研究です。このような研究を組織するのも、大学共同利用機関である国語研の役割の1つと言えるでしょう。
実験は3種類あり、それぞれ別の内容を調べています。そのうちの2つの実験は、ダイクシスをどう表現するかを調べたことが特徴です。たとえば階段を上がるシーンは、カメラから離れていくケース、カメラに向かっていくケース、そのどちらでもないケースの3つを撮影して提示しました。それによってダイクシスがどのように表現されるかを引き出すのです。このようにダイクシスに関する区別を体系的に組み込んだ実験は、国際的に見て珍しい試みです。
このようにして行われた実験の結果から、各言語の話者がどのくらいの頻度でダイクシスに言及するかを調べることができます。その結果を示したのが図2のグラフです。1つのビデオクリップの描写に、ダイクシスの表現が平均何回使われたかを示しています。
この結果から分かるのは、日本語はほかの言語と比べて、ダイクシスに言及することが非常に多い言語だということです。ダイクシスの言及頻度が高い理由として、日本語では、話者に向かう移動で「来る」を使うほか、話者から離れる移動や中立的な移動の際にも、「行く」のような動詞が使われることがあります。ダイクシスの表現頻度が低い言語では、話者へ向かう移動の場合にのみダイクシス表現を用いる傾向があります。たとえば、英語では話者に向かう移動はtoward meなどでダイクシスを表しますが、その他の場合は省略されることが多く、away from meなどと、わざわざ言わない話者が多くいます。また、日本語の場合、話者に向かう移動の場合には、「こっちに来る」のようにダイクシスを複数回示すこともあります。このような結果から、確かに、日本語はダイクシスに言及することが多い言語であると言えます。
ただし、日本語よりもダイクシスの表現頻度が高い言語があります。ネパールのネワール語や、ウガンダのクプサビニィ語では、動詞に加えて副詞や動詞接辞でもダイクシスが表され、全体的な頻度が高くなっています。日本手話(JSL)の場合は、手話使用者の前にある空間を用いて移動事象を表現するので、ほとんどの手の動きがダイクシス情報を含んでいます。ダイクシスに頻繁に言及する傾向は日本語のみのものではないということです。
次に、各種の経路を表すのに、諸言語がどのような手段を用いるのかについて、別の実験の結果を見てみましょう。先の階段を上がるシーンで、日本語は〈上方向へ〉という経路を「上がる」という動詞を使って表現することに触れました。これはどのような経路でも同じなのでしょうか。経路と一口に言っても、様々なものがあります。図3にあるものがそのいくつかの例です。
これらのすべてについて、日本語は動詞を使うのでしょうか。先の実験と同じ手法を使って、15種類の経路について、10の言語で調査を行いました。その結果、日本語については以下のような回答が得られました。
UP : 女の人が階段を歩いて登って行った。
ACROSS : 男の人が道路を走って渡って行った。
AROUND : 男の人が木の周りを回った。
TOWARD : 男の人がテーブルに向かって走って行った。
ALONG : 男の人が川に沿って歩いて行った。
UPやACROSSの意味は動詞のみで表していますが、そうではない経路もあります。AROUNDは、「回る」などの動詞に加えて、経路を「周り(を)」というヲ格位置名詞で付加的に表現しています。TOWARDやALONGでは「に向かって」「に沿って」という複合後置詞が用いられます。本来動詞であった「向かう」「沿う」を、わざわざ後置詞化して使っているのです。このように、日本語において、すべての経路が動詞で表わされるわけではないことが分かります。
この調査を諸言語において行った結果、経路の種類によって表現パターンが異なる言語が多いことが分かりました。さらに、諸言語に共通した、ある傾向があることが明らかになりました。具体的には、経路には動詞で表しやすいものから、動詞で表しにくいものまで、共通の序列があるということです。最も動詞で表現されやすいのは上下の方向を表すUP/DOWN であり、次がACROSS、OUT、INTO などです。一方、動詞で表現されにくいのはTOWARD、ALONG です。この観察に基づいて、動詞で表されやすいものを図の右寄りに位置させて意味地図を作ると、図4のようになります。ここではその意味地図の上で、日本語でどのような割合でそれぞれの経路に動詞が用いられたかを色の濃さを用いて表しています。右に行くに従って、濃い色で表されている(動詞で表すことが多い)ことがわかります。他の言語においてもこれと似た傾向が確認されています。
この発見に基づいて、言語間における移動表現の差異に関して、新しい説明方法が得られます。従来、移動の経路を動詞で表す言語と、それ以外の要素で表す言語があると言われてきました。先ほどの意味地図に基づく考え方からすると、経路を動詞で表すとされていた言語は、その範囲が意味地図で左寄りの種類の経路にまで及んでいる言語ということになります。つまり、移動表現における言語差は、この意味地図のどの範囲を動詞で表すのか、という観点から定義されることになります。
上で述べてきた移動動詞の研究成果については、2019年1月に、国語研で行われた国際シンポジウムMotionEvent Descriptions across Languagesで報告されました。15の言語における移動事象の表現の仕方についての発表が行われると同時に、それらの比較に基づく発表も行われ、海外からの招待講演者とともにその意義を議論しました。今年の8月に関西学院大学で行われた国際認知言語学会(対照言語学プロジェクトが共催)でも、この移動動詞に関する成果が発表されました。