第5号(2000年10月1日発行)
国立国語研究所は、昭和23年12月20日の創立以来、何度か移転・改築を続けてきました。研究所は数年後に立川市に移転することになっています。そこで、立川移転までの間、本号から毎年1号くらいの割で、かつての棲家を追ってみることにしました。現庁舎しか知らない私にとっては、ちょっぴり不安であり、また楽しみな試みといえます。本号では第1回として、かつて分室として使用された、東京都三鷹市の旧山本有三邸を取り上げました。
研究所は創立当初、明治神宮所有の聖徳記念絵画館の一部を借用していましたが、仕事が進むにつれ手狭になったため、山本有三邸を分室として借用しました。山本有三氏は、戦後、日本国憲法の口語化や当用漢字の制定に携わり、参議院議員として国語研究所の創立にも尽力なさいました。昭和26年12月、山本邸が進駐軍の接収を解除されると同時に、研究所分室として提供され、研究所の一部(当時の研究第二部)が昭和28年3月まで仕事をしました。
当時分室で仕事をしていた先輩の話によれば、その頃、研究所の首脳部は、研究所の拠点をどこに置くかについて検討し、将来の研究所のことを考え、いろいろ悩んだようです。山本邸も候補の一つだったようです。もし、ここが拠点となっていたら、その後の国語研究所はどのように展開していたのでしょうか。
この建物は、現在、三鷹市山本有三記念館(市の指定文化財<重宝>)として公開され、地元の人達や文学散歩を楽しむ人達に親しまれています。大正末期の本格的な洋館であり、建築に興味を持つ人たちも訪れるようです。
作家・有三は、昭和11年から21年までここで暮らし、その間に「路傍の石」「ストウ婦人」などの作品を書きました。また、近所の子ども達に蔵書を開放しました。出入りには南面のテラスが使われ、読書会には紅茶の楽しみもあったようです。
記念館開館にあたり、接収時代に塗られたペンキをはがしたり、マントルピースを修理したり、改修が行われました。記念館の方にうかがった話では、技術的に復元が難しいところもあるが、有三居住当時の雰囲気を取り戻すべく、さまざまな努力が払われているそうです。古い建物なので、蔵書や貴重な資料の保管には苦心するところもあるそうですが、保存と継承とを大事に考えていることに好感が持てました。
(情報資料研究部 池田 理恵子)
庭から建物南面(現在)を望む
三鷹市山本有三記念館
東京都三鷹市下連雀2-12-27
『国語研の窓』は1999年~2009年に発行された広報誌です。記事内のデータやURLは全て発行当時のものです。