第11号(2002年4月1日発行)
国語研究所は,昭和23年12月20日の創立当初,聖徳記念絵画館(新宿区霞ケ丘)の一部を借用して仕事をしていました。仕事が進むにつれ手狭になったため,研究所の一部が分室で仕事をすることになり,昭和26年12月からは,東京都三鷹市の旧山本有三邸(現・三鷹市山本有三記念館)を,その後,昭和28年5月1日から29年9月30日までは,新宿区立四谷第六小学校の一部を借用していました。
小学校内に分室を設けた昭和28年度から,国語研究所では「言語能力に関する調査研究」を行い,四谷第六小学校には,モデル校として,昭和28年度及び29年度に入学した児童が卒業するまでの7年間,継続してご協力いただきました。入学から卒業まで継続調査することで,書く・読む・話す・聞く力がどれだけ伸びるか,その発達の要因や段階を詳しく究めようとしたのです。研究員達は,入学した一学級の一人一人について,授業中はもちろん遊んでいる時の話し方まで克明に記録するほか,性格や家庭環境,教師の指導法などについても詳細なデータを集めていたようです。
当時の様子を伝える新聞の切り抜きが研究所に保存されています。昭和29年2月9日付毎日新聞朝刊には,「この研究は世界でもはじめての大がかりなもので,完成の暁は国語の指導,教科書の編さんに科学的な裏づけを与えるほか,言語改革の貴重な基礎資料となるので学界の注目を浴びている」として,「ひらがなが全部できる子は,入学当時は4分の1,9月には2分の1,1年たつと全員。覚えにくい字は「ほ」「ぬ」など。覚えやすい字は「し」で最初から7割が知っていた」など,研究成果の一部が紹介されています。
この記事の中に担任の先生のお名前を見つけ,その白砂宏先生にお会いすることができました。当時,研究所員が授業を観察・記録するようになって変わったことは?と尋ねたところ,「子どもを叱れなくなりましたね」とにっこりなさいましたが,お話をうかがって,子ども達のよいところを引き出そうと,いろいろ工夫して授業をなさっていたことが伝わってきました。
現在,JR総武線の信濃町駅で降り,線路沿いに坂道を数分下ると,四谷第六小学校の校庭と校舎が見えてきます。坂を下りきったところに外階段があり,上ったところが玄関です。玄関のある階は,階段を上っていくと2階のように感じますが,坂の途中から校庭を抜けて行くと1階になります。昭和62年に建て替えられた現在の校舎は,オープンスペースを有し,踊り場の窓にはステンドグラスがはめこまれている素敵な建物です。総合的学習の時間には,子どもたちがオープンスペースをフルに活用し,主体的な学習を繰り広げているそうです。
さて,研究所が分室として借用していたのは,旧校舎(の表紙写真で向かって左側)の坂下側からは1階,校庭からは地下にあたる部分だったようです。小学校は絵画館から線路を隔てて十分ほどのところにあります。昭和28年,絵画館の近くに分室を移すことができ,それまで神宮外苑と三鷹と離れていた所員たちが歩いて行き来できるようになりました。その後,昭和29年10月1日に神田一ッ橋に移転して,およそ3年にわたる分室体制が終わり,ようやく研究所全体が一つ所で仕事をすることができるようになったのです。
(池田 理恵子)
『国語研の窓』は1999年~2009年に発行された広報誌です。記事内のデータやURLは全て発行当時のものです。