国語研の窓

第16号(2003年7月1日発行)

ことば・社会・世界:東京の多言語表示

「多言語使用」でまず思い浮かぶのは,インドやスイスなどの2つ以上の大きな言語集団が共生する国でしょう。しかし多言語使用はある程度,どこの国でも起こる現象で,日本もその例外ではありません。東京都内にあふれている多言語表示を見ると,このことが良く分かります。

東京の多言語状況を具体的に把握するために,2003年3月から5月にかけて実態調査を行いました。JR山手線の28駅各々で,一定地域内にあるすべての表示を,その表示に含まれる言語によって分類してみました。

調査の主な結果

結論として次の2点を指摘できます。(1)多言語表示の割合は,その比率が最も高い東京(48%)から10%以下の高田馬場と,場所によってかなりの差があります。おおよその傾向として言えば,多言語の比率が特に高いのは,ビジネスやショッピングの街(東京,有楽町,原宿など)に多く,それに対して,多言語表示比率の低い場所は,住宅近接地域(高田馬場,目黒,五反田など)に多くなっています。(2)多言語表示全体(2,482件)に占める外国語の内訳は,英語(94.0%),中国語(2.4%),韓国・朝鮮語(1.6%)などと,英語が圧倒的に多くなっています。スペイン語,フランス語,タイ語など他の言語はすべて 1%以下です。この様な傾向は,どの調査地点でもほぼ共通していますが,韓国・朝鮮語を含む表示が25%を占める新大久保が唯一興味深い例外です。

誰のための多言語使用?

街の言語風景に影響を与える重要な要因は,言語選択に潜む動機です。東京外語大の井上史雄先生の表現を借りれば,言語には「知的」と「情的」な価値があります。言語の知的価値というのは,その言語のコミュニケーション手段としての価値です。外国語を含む表示が存在するひとつの理由は,言うまでもなく日本語の分からない人々とのコミュニケーション手段としてです。しかし東京都の外国人人口の割合が3%以下という現実に対して,調査結果が示した多言語表示の割合(平均24%)はかなり高いものと言わざるを得ません。その理由は,日本語のできない人々のためというよりも,日本人を意識した多言語表示もあるからだという気がします。

多言語表示の例を具体的に見ると,例えば「営業中」より「OPEN」,「いらっしゃいませ」より「WELCOME」,「引く」より「PULL」のような英語だけの表示がたくさん挙げられますが,どうして日本語の訳がないのでしょうか。それは,ことばが単なるコミュニケーションの手段としてだけでなく,それ以上の情的価値を持つからです。そうでなければ,英語の圧倒的な使用の高さは説明できません。表示に英語が多用される訳は,分からない日本人がいることを気にせず,知的より情的なことばの価値を優先させた言語選択の結果でしょう。言い換えれば,まったく意味不明のことばにこそ,それなりに価値があると言えるのかも知れません。

誰のための多言語使用?01誰のための多言語使用?02

表示が伝える多言語使用の発展

街の表示を見ていると,東京の新しく発展する多言語使用の状況が分かります。例えば,日本語だけで書かれた古いタイプの街区表示板と英語が併記された最近のバージョン,また,信号機で「歩行者用押ボタン」とだけ書かれた古いものと,「To cross street at night push button」が併記された新しいバージョン等の例があります。どちらも,新しい方が古い方より使用言語の数が多いという基本的な傾向があります。このことからも,東京の多言語使用は減少するのではなく,これからもますます増えていくということを仮定しても良いでしょう。このように,ことばの知的側面と情的側面が絡みあい,街の言語風景が東京の新しい多言語使用を語っています。

表示が伝える多言語使用の発展01表示が伝える多言語使用の発展02

(Peter Backhaus)

ペーター・バックハウスさん(ドイツ・デュースブルク大学,DFGプロジェクト研究員)は,2003年2~6月,本研究所に滞在し,「日本における多言語主義」に関する研究を行いました。

『国語研の窓』は1999年~2009年に発行された広報誌です。記事内のデータやURLは全て発行当時のものです。