ことばの疑問

「こんにちは」

2013.03.25 山田貞雄

質問

中学校で国語を教えています。教室では「こんにちは」が正しい、と教えています。でも、ふだん自分の友達とのメールでは、「こんにちわ」と書いてしまいます。この違いをどう考えればよいでしょうか。

回答

伝統芸能の世界の狂言の台詞には、古い日本語が伝承として残っていて、日本語そのものの昔の姿をうかがい知ることができます。そこでは「コンニッタ」という発音が伝承として多く残っていますが、それらは現代語の挨拶言葉のように、それだけで独立して、投げかけ交わされるのではなく、冒頭の挨拶に近い文章が、そこから始まっている、ということが多く、挨拶言葉のかつての姿を見て取ることができます。

さて、言葉の終わりに付く「わ」といえば、「飲むわ。食べるわ。」「歌うわ。踊るわ。」の「わ」があります。また、女性の使う事の多い、「いいわ。」「嫌いだわ。」「要らないわ。」もあります。これらは最初から文末につける「わ」として区別して考えます。一方、「こんにちは」の場合は、そのあとに続くべき文言が省略され、独立した挨拶言葉になったものと思われるので、これらの終助詞の「わ」ではなく、係助詞の「は」であるといえます。

現代日本語では、格助詞の「は」「へ」「を」を、発音通りの「わ」「え」「お」とは書かず、「は」「へ」「を」とします。これらは、どうしてなのか、どこが違うか、というと、かたや表音表記、かたや「仮名遣い」の問題や意識がある、といえます。

「仮名遣い」とは、たとえば、発音は「エ」だけれど、仮名では「へ」と書く、といった表記とその意識を指します。これは、実際の発音(多くの場合、時代的な変化をおこした結果)と規範的な正書法(多くの場合、元のまま書き方を伝統として温存しているもの)とが一致しない現象です。また、そうあるべきだ、とか、何々についてはどれどれのように書き分けるようにしよう、といった積極的な表記の意識そのものでもあります。

現代日本語の表記の規範である『現代仮名遣い』の中でも、このような「仮名遣い」があります。ここでは、単なる新旧ではなく、言葉の役割や働きによって仮名を書き分ける、という機能を果たしてくれる「仮名遣い」を残して含んでいるのです。この規則は戦後歴史的仮名遣いを改めた昭和23年の『現代かなづかい』から決められたことですが、一部を改訂して標題表記を漢字にかえた『現代仮名遣い』(昭和61年)では、当該の挨拶言葉の具体的な用例が、明らかに示されるようになりました。

質問者の先生は、学校では規範として仮名遣いを正しく教えていますが、日常の私生活ではどうでしょうか。挨拶言葉の部分がそもそも、どの助詞であった、とか、あるいは、助詞の存在を仮名で使い分ける、すなわち「仮名遣い」で際立たせる、といった意識も薄くなっているかもしれません。挨拶言葉の上にも、そのような助詞の使い方がある、といったことを日ごろはすっかり忘れている、という現代の言語現象を実体験しているのではないでしょうか。

特に、日常、友達同士で交わすメールのような、いわば現代版私信では、従来の文章語とか書簡用語とかいう表記意識もなく、手軽に日常会話や電話で話すように、思いつくまま、口について出るままを、文字に書きつづる傾向があります。いわば規則や正書法はそっちのけになって、気が付いてみたら終助詞のように「わ」となっているのでしょう。

このようなスタイルの文章は、近年、ウェブ上の随想や意見交換の場で、頻繁に大量に目にするようになりました。その場にふさわしい、カジュアルで、仲間うちの会話らしく、気を置くことなく繰り広げられる雰囲気を裏付けるものとして、「こんにちわ」の方を積極的に評価したり、心地よいもの、と感じたりする人も出てきているかもしれません。

こうなってしまったからには、相手や場面によって言葉を選ぶ敬語と同じように、その場や相手にふさわしい言葉を選べばよい、とも言えます。極端にいえば、中学校で国語を教えていることを意識したり、明らかにしたりしたくない相手には、むしろ「わ」を使った方が、その場もなごむのでしょう。反対に、職業や立場を知っている同士や、その職業上の相手(同僚や生徒や保護者)に向かう場面では、積極的に「は」を使うのが無難、といった戦略的な使い分けも可能です。このような、いわば新しい「仮名遣い」の意識さえも、ふさわしい言葉の追求として必然だ、と評価する時代が到来したのかもしれません。

書いた人

山田貞雄

YAMADA Sadao
やまだ さだお●伝統的な日本語学(旧国語学)を勉強したのち、旧図書館情報大学では、写本と版本の二種によって、『竹取物語』を読みとく授業や、留学生のための日本語・日本事情を担当。その後、国語研究所では、「ことば(国語・日本語・言語)」に関する質問に回答してきました。日常の言語生活や個々人の言語感覚が、「ことば」のストレスにどう関わるか、そこに “言語の科学”は、どこまで貢献できるか、が、目下最大の興味の的です。