ことばの疑問

「こども」の表記

2012.11.01 山田貞雄

質問

学校の保護者会で書記を引き受けました。記録や配布物では、「子ども」と書くように、という引継ぎがありました。どうして仮名を交ぜて書くのか、前任者や周囲の先生に伺ってみましたが、「いつもそうしている。」という以外に、理由がわかりません。「子供」と「子ども」では書き分けがあるのでしょうか。

回答

一般社会で目安となる漢字の用法の基準として「常用漢字表」があります。これは漢字が音読みの五十音順の表になっていて、字種、音訓、用例、特記すべき熟字訓や異字同訓の用法を示しています。そこでは、「供」の漢字に「とも」という訓があって、その用例として「子供」が挙がっています。ですから公用文などで用いる漢字の使用として、「子供」が間違っているわけではありません。

一方、教育界に広まっている考え方として、「『こども』は国連の児童憲章で明らかにしているように、社会から尊重され守られるべき立場なのだから、『供』という漢字はふさわしくない。」という考え方があるようです。

「供」という漢字がふさわしくないとするには、「お供(とも)」「供奉(グブ)」などというように、従属や隷属を意味するから、あるいは「○○ども」と複数の集団をさげすんで呼ぶいい方に使うから、という理由があるといいます。

日本語では、複数の全体やそのうちの一部をさすときに、「○○ども」という接尾語を付けることがあります。その表記は伝統的には「供」ばかりではなく、「共」の漢字も使われてきました。しかも、どちらの漢字・漢語も、もとから接尾語の意味・用法があったのではなく、「とも」という訓を媒介にして、日本語においてだけ活用されてきた用法なのです。

また、複数を表わす、という意味を添えている間は、接尾語としての役割を実質的に果たしているといえます。しかし、「こども-たち」とか「こども-ら」などという言い方が成り立ち、そうしないと格別に複数の意味にとられない場合もあります。あるいは「こどもは一人です。」などということができる、というのをみると、「こども」の「ども」は、すでに複数を表わす、という接尾語本来の役割を終えている、とも考えられます。

そうはいっても、上にも述べたように、従属や隷属の字義に思いをせ、あるいは、本来の接尾語の姿を想像したり、連想したりすることを、すっかり一切やめなさい、といっても、そう簡単に抑えられるものではないでしょう。このことは、差別表現とも通じ、「嫌だ、不快だ、落ち着かない、という人がいる以上は、やめておく。」という穏やかな原則も成り立つことでしょう。

さて、漢字で書くか、仮名で書くか、についていえば、有る限りの漢字をできるだけ総動員して書かねばならない、とか、全体で何パーセントの漢字含有率を目指して書かねばならない、などという決まりも、(新聞社内の基準や、読みやすさの目安にこそあれ、)公的な規則としてあるわけではありません。ですから実は「子供」でも「子ども」でも「こども」(因みに、国民の祝日は「こどもの日」と書きます。)でもよいのです。

このうち「子ども」は、「交ぜ書き」と言われる、漢字で書けるものの一部分に仮名を交ぜて書くものです。これは、語義を漢字から直感できない、とか、書き手が読み手の程度に合わせてやっている、という態度を感じさせるなど、素直に読めない、いわば「わだかまり」のようなものを生じやすい、という報告はあります。ですから常用漢字にない、いわゆる「表外漢字」であっても、仮名になおさず、漢字のまま書いて振り仮名を手当てする、といった方策も、認知を得る傾向にあるようです。

文字や表記の複雑な日本語ですから、公的なもので最終的にどう書くか迷った時には、仮名書きにする、という考え方もあります。

表記は、書き手の思想や考え方を主張する表現とされる場合もありますが、日常の言語生活では、いちいち、そんなに大上段に構えて文字種を選んで書いてはいられないでしょう。周囲が文字情報として適確に内容を理解でき、しかも穏やかに受け入れられる、といった方法を、時と場に合わせて考えてみてください。事情や背景を含みながら、ここではこう書くという選択決定も有りうることでしょう。

書いた人

山田貞雄

YAMADA Sadao
やまだ さだお●伝統的な日本語学(旧国語学)を勉強したのち、旧図書館情報大学では、写本と版本の二種によって、『竹取物語』を読みとく授業や、留学生のための日本語・日本事情を担当。その後、国語研究所では、「ことば(国語・日本語・言語)」に関する質問に回答してきました。日常の言語生活や個々人の言語感覚が、「ことば」のストレスにどう関わるか、そこに “言語の科学”は、どこまで貢献できるか、が、目下最大の興味の的です。