ことばの疑問

今年はイヌ年ですが、なぜ「犬年」でなく「戌年」と書くのですか

2018.06.13 片山久留美

質問

今年はイヌ年ですが、なぜ「犬年」でなく「戌年」と書くのですか。

回答

動物の「イヌ」を表す漢字には「犬」や「狗」などがありますが、「戌年」の「戌」という漢字自体にはもともと「イヌ」という意味はありません。漢和辞典で「戌」という字を引いてみると、


象形。小さな(まさかり)の形にかたどる。借りて、十二支の十一番目に用いる。
(『新字源 初版』角川書店)

とあり、もとは武器のまさかりの形から作られた象形文字であったことがわかります。ではなぜ「イヌ年」を「戌年」と書くのか、それを知るためにはそもそも「干支(えと)」とは何かを考える必要がありそうです。

私たちはよく「今年の干支はイヌだ」というような言い方をしますが、「干支」というのは本来「十干」と「十二支」を組み合わせたもののことです。その歴史は古く、古代中国の王朝「(いん)」の時代には使用されていました。

十干(じっかん)」とは「(こう)(おつ)(へい)(てい)()()(こう)(しん)(じん)()」から成り、天体の運行などに基づいて古代中国で月日を定めるのに使っていたと考えられています。日本では、万物は「木・火・土・金・水」の5つの元素から成るという「五行説」の考え方と組み合わされ、それぞれの元素に「()」「()」を付けて「甲=きのえ、乙=きのと、丙=ひのえ、丁=ひのと…」と呼ぶようになりました。「干支」を「えと」というのもこの「兄・弟」という言い方から来ています。

「十二支」の方も十干と同じく日付の順序を表すために使われていたようですが、「戌」の字だけでなく「子・丑・寅・卯…」という文字にも本来「ねずみ・うし・とら・うさぎ…」という意味はありませんでした。もともと月日の順序を表す記号のように用いられていたこれらの漢字に、後から動物名を割り当てたのです。十二支に動物名を割り当てたことを明確に示す最も古い記録は、古代中国の後漢の時代に編まれた『論衡(ろんこう)』という書物に残っています。なぜ十二支に動物名を割り当てたのか、またなぜこれらの動物が選ばれたのかについては、十二支を多くの人々が理解し覚えられるようになじみ深い動物の名前を付けたのではないかなどの諸説がありますが、はっきりとは解明されていません。「イヌ年」を「戌年」と書くのには、非常に古い歴史を持つ十二支の成立事情が深く関係しているのです。

十干十二支は日本にも奈良時代には伝わっていたようで、『万葉集』などに干支によって年月を表す例が見られます。陰陽五行説とともに日本人の生活にも深く浸透し、日付や年だけでなく時刻や方角も十二支によって表しました。『日本語歴史コーパス 』で十二支をそれぞれ検索してみると、たくさんの例を見つけることができます。

入らせたまふは十七日なり。戌の刻など聞きつれど、やうやう夜更けぬ。(『紫式部日記』)

(中宮さまが宮中へお入りになるのは十七日である。時刻は午後八時ごろなどと聞いていたけれど、だんだん延びて夜も更けてしまった。)

わが庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり(『古今和歌集』雑下・喜撰法師)

(私の庵は都の東南にある。このように都から離れて勝手に暮しています。その宇治山もやはり世は憂しと世を厭うて入る山だと人さまは言っているそうです。)

爪のいと長くなりにたるを見て、日をかぞふれば、今日は子の日なりければ、切らず。(『土佐日記』)

(爪がたいそう長くなったのを見て、日を数えてみたら、今日は子の日なので切らない。)

(本文の表記・現代語訳は全て『新編日本古典文学全集』(小学館)による)

『土佐日記』の例では「今日は子の日だから爪は切らない」とありますが、当時の風習として「手の爪は丑の日に切る」というものがあったため、前日の子の日には切らないと言っているのです。「子の日」は特に正月の最初の子の日のことを指して言うことが多く、この日には野に出て若菜を摘み千代を祝うなどの儀式を行いました。他にも、自分が生まれた年の干支によって忌むべき方角を避ける「方違え」、「庚申(かのえさる)」の日には眠らずに夜を明かす「庚申待ち」など様々な信仰や風習と結びついた決まり・行事がありました。十干十二支は単に年月日や時刻、方角を表すというだけでなく、生活のあらゆる場面において意識される身近で重要なものだったのです。

図: 十二支と時刻、方角

このように日本の人々にとって十干十二支は、古くから生活の根幹に関わる場面に取り入れられ使用され続けてきたものです。そのため十二支に使われる漢字は動物の意味を表す他の漢字とは混同せず、両者を明確に使い分ける意識が根強く働いてきたのではないでしょうか。現代では意識することの少なくなった干支ですが、漢字表記をたよりに注意深く探してみると私たちの生活の中にも多くの痕跡を見つけることができるかもしれません。

書いた人

片山久留美

片山久留美

KATAYAMA Kurumi
かたやま くるみ●国立国語研究所 言語変化研究領域 プロジェクト非常勤研究員。
日本語の文字や表記に関心があり、現代ふつうに使われている漢字仮名交じり表記がどのような歴史を経て成立してきたかを研究したいと考えています。国語研では『日本語歴史コーパス』の開発に携わっています。

参考文献・おすすめ本・サイト

  • 水上静夫(1998)『干支の漢字学』大修館書店
  • 諸橋轍次(1968)『十二支物語』大修館書店