ことばの疑問

この世に漢字はいくつありますか

2018.09.05 阿辻哲次

質問

この世に漢字はいくつありますか。

この世に漢字はいくつありますか

回答

「漢字はいくつあるのか」という問いは、たとえば「英語で使われる単語はいくつあるのか」という問いと同じように、永遠に答えを定めることができない問題です。日本の小学校で学習する漢字は学習指導要領によって1006字と決まっており、また日常生活における漢字使用の目安とされる常用漢字は2136字あります。しかし「飴」や「蝶」、「碗」など、それに含まれていないのに世間でよく使われる漢字もありますし、漢字の本家である中国には、日本人が見たこともない漢字があちらこちらに氾濫しています。

たとえば中国の空港で搭乗手続きをするカウンターの掲示に、「锂」という漢字がありました(図のいちばん左)。その掲示にはパソコンやスマホのイラストが描かれ、またこの漢字のあとに「电池」(電池)とあるので、はじめてこの字を見た人でも、それが《金》で意味を、《里》で発音を示す形声文字で、全体でリチウムという金属を表しているということがわかるでしょう。

図: 中国の空港にある掲示を再現したもの

リチウムは元素記号のひとつで、「化学元素周期表」でははじめの方、No.3に配置されています。日本でも化学元素周期表ではリチウムはLi、他にもナトリウムはNa、カルシウムはCaとアルファベットで表されますが、中国の元素記号表ではアルファベットの他に漢字表記があって、ナトリウムには「钠」、カルシウムには「钙」という漢字が書かれています。中にはNo.26の鉄、29の銅、47の銀、50の錫など、私たちにもなじみがある漢字(簡体字になっていますが)もありますが、しかしほとんどは多くの方が見たこともない漢字ばかりです。

それに対して、No.1の「H」とかNo.6の「C」は中学生でも知っている元素ですが、それを漢字で「水素」とか「炭素」と書いても、中国人には通じません(もちろん「酸素」も同じです)。中国ではHのことを「氢」、Cのことを「碳」と書き、日常生活でもたとえば水素爆弾は中国語では「氢弹」、カーボンファイバーすなわち炭素繊維は「碳纤维」と書かれます。

これらの漢字のほとんどは、近代化学が西洋から伝わった時に元素を表すためにはじめて作られたものです。現在の元素記号表に見える漢字だけでも優に百個を越えますが、これから先に新しい元素が発見されたり、作りだされたりしたら、中国ではその元素を表すためにまた新しい漢字が作られるにちがいありません。極端な話ですが、もし元素の数が無限であるとすれば、それに対応して、漢字の数も無限であるということができるかも知れません。

無限は大げさですが、漢字がこのようにたくさん作られてきたもっとも大きな理由は、漢字が現在に至るまで、一貫して表意文字として使われてきたという事実にあります。表意文字にはそれぞれの文字に固有の意味があります。そしてそのことを逆にいうならば、それぞれの文字は、ある特定の事物や概念を表すために作られたということになります。この事物とか概念というものは、人間が暮らしている環境においてはいわば無限に存在すると考えられます。

事物や概念は、文字のない時代には口頭の音声によって表現されていましたが、時代が進んでそれを文字で表記するようになってきました。その時に、アルファベットや日本の仮名のような表音文字を使っていれば、たかだか数十種類の文字の組みあわせによって、事物や概念を表すことができます。しかし漢字は表意文字ですから、それぞれの事物や概念を指し示すために個別の文字を作るしか方法がありませんでした。公園でポッポッポと鳴いている鳥を表すために「鳩」という漢字を作り、コケコッコと鳴く鳥を表すために「鶏」という漢字を作り、大空を雄々しく舞う鳥を表すために「鷲」という漢字が作られました。アルファベットや仮名にくらべて漢字の数が格段に多くなったのは、表意文字としての宿命だったのです。

それに加えて、漢字には悠久の歴史があります。漢字の字数が増加した理由の二つ目は、その使用時間の長さにあるといえるでしょう。

漢字は商((いん))時代の甲骨文字から数えても、現在までに3000年以上の歴史を有しており、この間にたえまない文化の発展がありました。社会には新しい物や概念がどんどんと登場し、それに応じて、さらに多くの漢字が新たに作られるようになったのです。そしてその文字はさらに近隣の諸国にも伝播して、それぞれの国で言語表記に使われました。その時、本来の漢字では表現できない物について、それぞれの国で新しい漢字が作られました。

古くから「地大物博」(大地は広く、物産は豊富である)という言葉で形容される中国ですが、海産物に関してはいささか貧弱であって、漢字のふるさとである黄河流域に暮らした古代の中国人は、おそらくイワシという魚を見たことがありませんでした。黄河にはコイとかフナという魚がいるので、「鯉」とか「鮒」という漢字が中国で作られました。しかし黄河にはイワシもタイもブリもマグロもいませんから、中国人がそんな見たこともない魚を表す漢字を作るはずがありません。

それに対して四方を海に囲まれた日本では、生活物資の多くを海から得てきました。なかでも魚類は種類が非常に多く、そこには古代中国の食生活に登場しないものも多く、結果としてその魚を表す漢字が存在しませんでした。

表記する漢字がない魚を、はじめは「伊委之」(イワシ)というように万葉仮名の方法で書いていましたが、やがてどこかの誰かが「鰯」という文字を創作し、文書などの表記に使うようになりました。ほかにも、ハタハタという魚は晩秋から初冬にかけて、秋田県など日本海岸で雷が多く鳴る季節に海岸へやってくることから、「鱩」と書かれました。

こうして《魚》をヘンとした大量の国字(和製漢字)が作られました。おなじみの寿司屋の湯飲みに書かれている魚ヘンの漢字は、その大部分が国字であり、同様の現象が植物についても指摘できます。

上のような理由によって漢字は膨大な数をもつようになり、この結果、漢字の総数は5万とも6万とも言われるようになりました。日本で刊行されている 『大漢和辞典』(大修館書店)には約5万字が収録されていますし、中国で出版されている『漢語大字典』(四川辞書出版社・湖北辞書出版社刊行)には約6万字、『中華字海』(中華書局)には、なんと8万字以上も収められているそうです。

しかしこのように数万ともいわれる漢字のすべてを、歴代の中国人や日本人が実際に使いこなしてきたわけではありません。漢字の総字数とは歴史的な蓄積の結果であり、これまで一度でもなにかのメディアの上に出現した漢字を網羅した総体にすぎません。それぞれの時代に使われた漢字はそれほど多くはなく、どんなに多くてもせいぜい1万もあれば十分に用は足りるものでした。その点で、中国最古の漢字字書である『説文解字』(後漢・許慎撰)の総収録字数が約9300であり、また現在の日本での一般的な漢和辞典がだいたい1万前後の漢字を収めているのは、きわめて妥当な数であるといっていいでしょう。

書いた人

阿辻哲次

阿辻哲次

ATSUJI Tetsuji
あつじ てつじ●京都大学名誉教授。(公財)日本漢字能力検定協会 漢字文化研究所 所長。
1951年大阪府生まれ。1980年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。京都大学大学院人間・環境学研究科教授を2017年3月末で定年退職。
専門は中国文化史、中国文字学。人間が何を使って、どのような素材の上に、どのような内容の文章を書いてきたか、その歩みを中国と日本を舞台に考察する。
文化審議会国語分科会漢字小委員会委員として、常用漢字表の改定に携わる。
著書に「漢字再入門」(2013、中央公論新書)「タブーの漢字学」(2013、講談社学術文庫)「漢字のはなし」(2003、岩波ジュニア新書)など。

参考文献・おすすめ本・サイト

  • 阿辻哲次、森博達、一海知義(2002)『何でもわかる漢字の知識百科』三省堂
  • 阿辻哲次、前田富祺(編)(2009)『漢字キーワード事典』朝倉書店