漢字はいつから日本にあるのですか。それまで文字はなかったのでしょうか。
日本語は、当初は文字を持っていませんでした。文字は言語を記録するために後から誕生するものです。したがって、日本語に限らず、どの言語も最初から文字を伴っていたわけではありません。現在、地球上に存在する言語の数は諸説あって、3000、5000、6500、8000とも言われます。これは、数え方の規準の違いによるものですが、いずれにしてもかなり多くの言語があることが分かります。一方で、文字を持っている言語は400程度と言われており、文字を持たない言語の方が圧倒的に多いことが分かります。
言語が文字を持つには、どのような方法があるでしょうか。新たに作りだすか、他の言語で既に使われている文字を借りてくるかの二通りの方法が考えられます。そして、文字を持っている言語の多くは、借りてくるという方法によって表記体系を作り出しています。
日本語の場合も、他の言語で使われている文字を借りてくるという方法によって文字を獲得しました。そして、最初に借りてきた文字が「漢字」だったのです。
日本語では、漢字を表語文字として使うほかに、漢字をもとにした表音文字(平仮名・片仮名)も作り出しました。現代日本語では、「漢字仮名交じり文」ですが、表語文字と表音文字との二つの文字を混ぜて使っている言語は珍しいと言えます。
日本語を話す人々が漢字に最初に出会った時期は、金印(福岡県志賀島出土)や銅銭(長崎県シゲノダン遺跡出土)などから、1世紀ごろだと推定されています。いずれも中国大陸で製作された品で、金印には「漢委奴国王」、銅銭には「貸泉」という漢字が記載されています。
5世紀ごろになると、日本で制作された鉄剣や銅鏡に、日本の地名や人名が漢字を用いて記載されるようになります。稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣の銘文には「乎獲居(ヲワケ)」「意富比垝(オホヒコ)」という人名、「斯鬼(シキ)」という地名が刻まれています。江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土の鉄剣の銘文や、隅田八幡宮(和歌山県橋本市)伝来の銅鏡にも人名・地名が漢字を用いて記されています。ただし、これらの品の製作には渡来人が関わっていた可能性が指摘されています。
日本語を話す人々の中に、漢字を読み書きできる能力を持った人が増え始めたのは6世紀から7世紀になってからです。
日本では、6世紀から7世紀にかけて、中国大陸や朝鮮半島から儒教、仏教、道教を取り入れ始めました。こうした思想や宗教を摂取するためには、漢文で書かれた書物を読む能力が必要になりました。7世紀には、隋や唐からの帰国者や、大学寮で明経道を学んだ人々も含め、識字層が広がっていきました。
奈良時代になると仏教が盛んになります。聖武天皇による大仏の造営開始はそれを象徴する事業ですが、それと並んで大規模な写経事業も行われました。官立の写経所が設けられ、写経生という人たちが、漢字で書かれた経典の書写を行っていました。例えば、「天平十二年(740)五月一日記」の願文を巻末にもつ『岩淵本願経四分律』も写経所で書かれたもので、本文は漢字の楷書体が整然と並んでいます。
7世紀後半から8世紀後半になると、日本最古の和歌集『万葉集』が編纂されましたが、和歌も漢字だけで記されています。5・7・5・7・7という歌の1拍1拍の音を記す表記法(万葉仮名の音仮名)であっても、漢字という文字だけを使用しているのです。
余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
(よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます かなしかりけり)
〔巻5・793〕
平仮名・片仮名が生み出される前の奈良時代は、「漢字の時代」だったと言えます。
写経所で書き写されたもの。巻末に聖武天皇の后・光明皇后の「天平十二年五月一日記」の願文を巻末にもつ、いわゆる「五月一日経」の一つである。本文の漢字は奈良時代に書かれたものであるが、弘仁・天長頃(9世紀)の訓点が書き込まれているため平安初期の日本語資料でもある。