ことばの疑問

古典文法では過去や完了の助動詞がたくさんあるのに、現代語ではなぜひとつしかないのですか

2019.03.19 福沢将樹

質問

古典文法では過去や完了の助動詞がたくさんあるのに、現代語ではなぜひとつしかないのですか。

『和漢朗詠集(室町中期写本)』上巻 16オより、タリの例
画像は『和漢朗詠集(室町中期写本)』上巻 16オ(国立国語研究所 所蔵)より

回答

国語教育の古典文法では、過去の助動詞は「き」「けり」、完了の助動詞は「つ」「ぬ」「たり」「り」と説明されています。現代語文法では過去(完了)の助動詞は「た」と説明されています。

古文の「たり」の連体形「たる」から「る」が落ちて「た」になりました。

平安中期(10世紀~11世紀初)までの「たり」「り」の意味は、おおむね〈状態〉や〈動きのない過程〉を表しました。

「荒れたるやどにひとり立てれば」
(荒れている家に一人で立っていると)

『古今和歌集』巻四 237番歌

ここからどのように意味が変化していったかというと、大きく二つの道筋が考えられます。①〈過程〉から〈起動〉〈終結〉へ、②〈経歴〉から〈過去〉へ。

①〈過程〉から〈起動〉〈終結〉へ

まず①「〈過程〉から〈起動〉〈終結〉へ」という道筋です。回り道になるようですが、現代の「おもむろに」という言葉から見ていきたいと思います。

「おもむろに」という言葉の意味は、最近まで〈ゆっくりと〉というものであったようです。「おもむろに顔を上げた」は(ゆっくりと顔を上げた)という意味でした。しかし同じ表現が(突然顔を上げた)という意味に解されるようになってきました。このように、〈ゆっくりした過程〉から〈起動〉の意味へと変化しつつあります。

似たような変化は他の言葉でも起こりました。「ようやく」という言葉もまた、古くは〈次第に〉〈だんだん〉という〈ゆっくりした過程〉を表していましたが、いつの間にか〈やっとのことで〉という〈終結〉の意味で用いられるようになりました。

過程〉から〈起動〉〈終結〉へと変化する傾向が、言葉の歴史にはありそう

このように、〈過程〉から〈起動〉〈終結〉へと変化する傾向が、言葉の歴史にはありそうです。

似たようなことが古典文法で完了の助動詞とされている「つ」「ぬ」にも起こり、そして「たり」にも起こったのではないかと考えられます。

「我はもや安見児得たり 皆人の得かてにすといふ安見児得たり
※藤原鎌足が、みんなが得たいと思っている采女の安見児を妻としたときの歌

『万葉集』巻二 95番歌

とは、実は(安見児という女性が自分のものである)という〈関係〉ないし〈状態〉を表します。しかし現代人は、(安見児を自分のものにし)という行為の意味の方を強く感じてしまいます。つまり〈状態〉から〈起動〉の意味が生まれたわけです。更には(長いことかかってやっと自分のものにでき)という〈終結〉のニュアンスさえ感じるようになっていきました。

「ぬ」もまた、おそらくかつては〈ゆっくりした過程〉そのものを表しました。しかし、現代人の目で見ると〈終結〉を表すように感じられます。これはまた同時に〈起動〉の意味でもあります。例えば「秋来ぬ」(『古今和歌集』巻四169番歌)というのは、秋の到来が〈終結〉したというニュアンスが感じられるかもしれませんが、「これからは秋だ」という〈起動〉(新たな状態の発生)でもあります。

「つ」の場合は、語源がはっきりしませんが、これもまたおそらく似たような変化が起こり、そしてそれはおそらく「たり」「ぬ」よりも早く起こったものと考えられます。

「つ」「ぬ」「たり」の変化

さて「つ」「ぬ」「たり」がそれぞれ〈過程〉を表していた時代には、細かい使い分けがあったようです。しかしこれらがみな〈過程〉そのものよりも過程の〈終結〉や〈起動〉の方が本義だと思われるようになると、〈過程〉の意味の細かな違いはもうどうでもよくなってきます。その結果、「たり」の連体形「たる」や「た」が一手に引き受けるようになったものと考えられます。なぜ「つ」でも「ぬ」でもなく「た」なのかと言うと、一つは圧倒的に「たる」「た」の使用頻度が高かったからという理由が考えられます。もう一つは、「たる」「た」の意味が次の②のように更に拡大したからです。

②〈経歴〉から〈過去〉へ

そこで次に、②「〈経歴〉から〈過去〉へ」という道筋です。

平安中期(10世紀~11世紀初)までの「たり」は、実は〈経歴〉つまり「~したことがある」「既に~している」を表す場合も稀にありました。

「我やは花に手だに触れたる
(私が花に手を触れたことがあるとでもいうのか。指一本すら触れてはいない)

『古今和歌集』巻二 106番歌

現代語の「~ている」もまた、普通は〈過程〉を表しますが、〈経歴〉を表すことがあります。

「今までに3回ヨーロッパに行っている

「芭蕉もかつてこの寺を訪れている

「たり」の〈経歴〉の用法は、「完了の助動詞」であっても、その意味は〈過去〉に近いものです。「3回行っ」「かつて訪れ」と言っても内容はほぼ同じです。

②〈経歴〉から〈過去〉へ

〈経歴〉を表す表現は、このように、〈過去〉を表す表現に変わっていきやすい性質があります。こうした「〈完了〉から〈過去〉へ」という変化は、いろいろな言語に見られます。現代英語では「過去形」と「現在完了形」の区別がありますが、フランス語の現在完了形は「複合過去」と呼ばれ、既に過去形の一種と考えられています。

このように「た」が〈経歴〉から単なる〈過去〉へと軸を移していきますと、過去の助動詞であった「き」「けり」の存在理由も薄れてきます。「き」「けり」も微妙な意味の違いがありましたが、「た」さえあればこのような違いを気にしないで済むようになります。

「たり」~「た」の主要な意味が〈過程〉から〈終結〉や〈過去〉にスライドしていきますと、今度は〈過程〉そのものを表すことが難しくなってきます。そこで中世以降、「ている(てゐる)」「てある」「ておる(てをる)」のような表現が増えていきました。かつて助動詞で表されていたものが、補助動詞で表されるようになったということです。これらの変化は、どちらが原因でどちらが結果かはわかりませんが、全体として日本語全体が変化していったということになります。

書いた人

福沢将樹

HUKUZAWA Masaki
ふくざわ まさき●愛知県立大学 日本文化学部 国語国文学科 教授。
博士(文学)。専門は日本語文法(テンス・アスペクト)、物語論など。著書『ナラトロジーの言語学―表現主体の多層性』(ひつじ書房、2015)。

参考文献・おすすめ本・サイト

  • 中西宇一(1996)『古代語文法論 助動詞篇』和泉書院
  • 山口堯二(2003)『助動詞史を探る』和泉書院
  • 福沢将樹(2018)「テンス・アスペクトの歴史」 日本語学会 編『日本語学大辞典』東京堂出版