日本語教育で、「のだ」はどんなときにつけると教えたらよいですか。
いわゆる文末表現の「のだ」「のです」は、会話(口頭表現)の中ではしばしば「んだ」「んです」となります。今回は、特に会話の中に現れる「のだ(「んだ」「んです」)」を一緒に考えてみましょう。
(1)自己紹介の場面で「私の名前は、李なんです。」
この例文を見たとき、「変だな」と感じる方が多いと思います。でも、どうして変なのかを説明しようとすると、意外と難しいのではないでしょうか。
この例文は、日本語を勉強している留学生が実際に表現したものなのですが、自分の名前を〈強調〉したかったから「のだ」をつけて表現したというのです。たしかに、留学生に日本語を教えるときに、「のだ」をつけると、次の例文(2)のように〈強調〉を表すと説明することがあります。
(2)(雑談をしているとき)「昨日、デパ地下に行ったら、私の国の特産品フェアをやっていたんです。」
この例文(2)と次の例文(2a)を比べてみましょう。
(2a) 「昨日、デパ地下に行ったら、私の国の特産品フェアをやっていました。」
「のだ」のない例文(2a)よりも「のだ」をつけた例文(2)のほうが、「デパ地下で私の国の特産品フェアをやっていた」ことが〈強調〉されているように感じられると思います。そうすると、どうして例文(2)の場合は「のだ」をつけると〈強調〉になるのに、例文(1)の場合は、「のだ」をつけると変になってしまうのかという疑問が生じます。みなさんだったら、どのように説明しますか。
例文(1)(2)をみると、どちらも、「のだ」をつけて、相手の知らない情報を伝えている点では同じです。ですが、「知らない」の種類が異なります。「のだ」をつけて相手の知らない情報を伝えるばあい、「確かではないが、少し知っていること」が前提となります。例文を見ながら考えていきましょう。次の例文(1a)(2b)は、副詞の「実は」をつけたものです。
(1a) 「実は、私の名前は、李なんです。」
こうすると、より例文(1a)の不自然さが際立つと思います。(1a)のように、聞き手が、相手の名前について「少しも知らない」状況では、「のだ」をつけると不自然に力んだ印象を与えてしまいます。
それに対して(2b)のばあい、聞き手は、デパ地下という場所では何らかの催し物が行われるということを知識として知っています。つまり「確かではないが、少し知っている」わけです。しかし、その催し物の内容がわからない、「不確か」な状況なので、それを埋める情報を「のだ」をつけて伝えています。このように、聞き手の「不確か」な認識が充足されて「確か」になるときに「のだ」をつけると、より強い印象を与えることができます。
この「確かではないが、少し知っている」という前提には、相手の認識が誤っている場合も含まれます。例えば、次の例文(1b)は、特に違和感がないと思います。
(1b)(李さんの旧姓が鈴木さんで、結婚したことを田中さんが知らないばあい)
田中さん「あっ、お久しぶり。鈴木さんですよね」
李さん「いえ、実は、私の名字は、李なんです。昨年、結婚しまして」
このばあいも、「確かではないが、少し知っていること」になり、例文(1b)は自然になります。「名字が鈴木である」という田中さんの誤った認識を〈訂正〉するために「のだ」をつけて「名字が李である」ことを印象的に伝えているわけです。
今度は、話し手自身が「確かではないが、少し知っている」ばあいを考えてみましょう。次の例文(2c)は、二人が雑談を始めるところです。
(2c)
A「あれ、今日はずいぶん元気ですね。何かあったんですか?」
B「実は、昨日、デパ地下に行ったら、私の国の特産品フェアをやっていたんです。」
Aさんは、Bさんの状況(例えばニコニコしている等)から「Bさんがずいぶん元気だ」ということを「少し知っている」という認識がありますが、「Bさんがどうして元気なのか」の理由まで含めた「確か」な認識はありません。そこで、「のだ」をつけて、「確か」な情報を教えてほしいとBさんにアピールしているのです。Bさんも、それに対応して、Aさんの「不確か」な認識を満たす情報を「のだ」をつけて伝えています。
ここで、注意したいのは、同じ表現でも、例文(2)での「不確か」な情報は「デパ地下での催しものの内容」、例文(2c)での「不確か」な情報は「Bさんが元気な理由」というように、前後の文脈によって「不確か」な情報が異なるということです。「のだ」をつけるかどうかの判断が難しいのは、このように文を越えた「文脈」を考慮する必要があるためです。
このほかにも、「のだ」をつけるかどうかについては多くの問題があります。それでも、基本は、「のだ」をつける前提が「確かではないが、少し知っていること」という点にあります。「のだ」をつけて表現された情報が、話し手にとっても聞き手にとっても「確か」な認識となることで、その後の話題の展開が多様なものになります。