英語では「兄と弟」、「姉と妹」がそれぞれ”brother” と”sister” で表現ができますよね。
年齢の上下を気にする日本語、気にしない英語、ほかにどんなパターンが世界の言語にはあるのでしょうか。面白い例があれば教えてください。
15年程前、アラスカ州フェアバンクス市にあるアラスカ大学で半年ほど言語学の勉強をしていました。その時、偶然、ジョンさんというユピック・エスキモーの人と出会いました。ユピック・エスキモーの村で教師をするためにアラスカ大学にやって来た人でした。
当時の私は、イヌイットとは異なるエスキモーの人たちがいることすら知りませんでした。ジョンさんは毎週日曜日自宅に私を招いてくれて、伝統的な料理をご馳走してくれました。このムースの肉は自分で撃ったもの、ソース代わりに用いるアザラシの油は兄が送ってくれたもの、この鮭は姉が送ってくれたもの、と食べ物を解説しながら、家族のこと、自分の育ったアラスカ西南部にあるヌナーピチョコ村のことなどをたくさん話してくれました。
3ヶ月もすると、ジョンさん一家のことはかなり詳しくなりました。
その一方で、食事をするたびに違和感も感じました。私たちは英語で話していたのですが、幼い頃に亡くなったはずの「お父さん」らしき人が今も元気であったり、出身地が異なる兄や姉がいたり、なによりジョンさんの話からすると兄弟姉妹が14、5人はいる感じなのです。加えて、フェアバンクスの街中に一緒に出掛け、ユピック・エスキモーの人とすれ違うと、4、5人に1人はジョンさんの「いとこ(cousin)」に遭遇します。どのように考えても、ジョンさん一家は、大きすぎると感じました。
ある日、アラスカ大学の図書館地下で、英語の本に混ざって一冊の日本語の本があるのに気づきました。それはユピック・エスキモー語研究の第一人者、宮岡伯人先生が80年代に書かれたエスキモーの本でした。その中に、表1にあげた親族名称の樹形図をみつけました(『エスキモー 極北の文化誌』 p83)。
さらに、その中の表にある11、12、13、14をみて、腰が砕けそうになりました。樹形図と照らしあわせてみていただきたいのですが、ユピック・エスキモー語では、自分のお父さんの男きょうだいの子ども、お母さんの女きょうだいの子ども(「平行いとこ」、と呼ばれる)には、自分の兄弟姉妹と同じ名称が用いられるのです。
逆に、表の15と16にあるように、お父さんの女きょうだいの子ども、お母さんの男きょうだいのこども(「交叉いとこ」)には別の名称が用いられています。
なるほど、ジョンさんにきょうだいが多かった理由はこの平行いとこをそのまま英語のbrotherやsisterに置き換えて話していたからなんだと合点がいきました。また、英語では血縁関係にある人はみなcousinとよべるから、かなり遠い親戚も全部 cousin を使って形容していたのだなと思いました。
宮岡(同書、p82)によると、平行いとこと交叉いとこを区別するこの親族名称体系は文化人類学では「イロコイ型(アメリカ・ネイティブの一つに由来)」に分類されるといいます。
また、日本語や英語のように二つのタイプのいとこを区別しない体系は「エスキモー型(イヌイット語を反映した名称)」と呼ばれます(同じエスキモーでもこの点では大きく違うのですね)。
世界の言語に観察される親族名称体系は、一般に、6タイプに大別できるとされます。その中でも「ハワイ型」が最も簡素な分類で、性差のみ、つまり、父方、母方関係なく、おじとおばに当たる人はみな父と母に相当する語が使われ、またその子どもは全て同じきょうだい(男女の区別はする)になるというのです(Everett, Daniel L. Language: The Cultural Tool、p248)。
さらにEverett(同書、pp248-250)は自身の研究からアマゾン川流域に暮らすピダハンは、その性差さえも希薄で、父、母、おじ、おばは、同一の語で表され、また、兄、姉、弟、妹もみな同じ名称で呼ばれるといいます。
言語学における難問の一つとして、『サピア・ウォーフの仮説』というものがあります。簡素化して言いますと、「言語」と「思考(と行動)」はどのような関係にあるのかという議論です。
研究者の見解が一致している部分は、「言語」=「思考」(最も強い仮説)ではないだろうということ、かといって、全く関係ないはずもなく、非常に限られた語彙のレベルでは、少なくとも言語はなんらかの形で「思考」に影響を与えているだろうということです(最も弱い仮説)。
研究者間で意見が分かれるのはそのオーバラップの度合いがどの程度か、という問題で、文法レベルでもある程度、「言語」は「思考」に影響を与えると、強めに考える研究者もいれば、語彙程度のレベルがやはりその限界線であると弱めに抑える研究者もいて、静かながらも議論がおさまる気配はありません。
宮岡(同書、p84)は、ユピック・エスキモーの人たちには、日本語で言うところのきょうだいと平行いとこによるきょうだいにははっきり意識と行動の差があることを述べています。また、Everett(同書、p250)もピダハンの人たちはいとこ同士で結婚することは多々あると指摘した上で、名称が同じだからといって、ピダハンの人たちが日本語で言うところのきょうだいと婚姻関係に入ることはないといいます。
納得する一方で、新たに生まれてくる疑問があります。では、その区別の感覚は、例えば日本語で、他人である店員さんを「お兄さん」や「お姉さん」と親族名称を擬似的・虚構的に用いて呼ぶのとはどのくらい異なるものなのでしょうか?(鈴木孝夫『ことばと文化』)。きょうだいといとこに同じ名称を与える人たちとそうでない人たちで思考、感覚や行動は実際どの程度異なっているのでしょうか、もっと考察してみたい気持ちにさせられます。
「婚姻関係とは」といった硬い問題を少し離れて、まず、是非、表にある樹形図をもとにご自身のいとこ関係をユピック・エスキモー語にあてはめて、その関係を想像してみていただけたらと思います。ちなみに私には、兄が2人、姉が4人、弟が3人いることになります。いつもと違うフレームで人間関係をみてみると、ひょっとしてそこに何か生活のヒントが隠れているかもしれません。