既にお店に入っているのに「いらっしゃいませ」と言うのはなぜですか。
「いらっしゃいませ」ということばは、二つの部分に分けることができます。一つは動詞「いらっしゃる」の連用形「いらっしゃり」がイ音便化した「いらっしゃい」です。「いらっしゃる」は「来る」「行く」「いる」の尊敬語です。もう一つは丁寧の助動詞「ます」の命令形「ませ」で、相手に何かを丁寧に要求したり促したりする表現です。これは省略されることもあります。
私たちが想像しやすい「いらっしゃい」は「こちらにいらっしゃい」などのように、聞き手が話し手の方に来るよう促すものです。江戸時代の書物でも、見世物の客寄せの際に道を行く人が立ち寄るよう呼びかけることばとして「いらっしゃい(ませ・まし)」が用いられています。この客の呼び込みとしてのことばが繰り返し用いられることを通して定着し、客に対する歓迎の気持ちを広く表すものとして「いらっしゃいませ」は使用されるようになったと考えられています。
さて、私たちが普段ことばを使ってやっていることの一つに「あいさつ」があります。あいさつは人と人とがふれあう場面で、お互いが気持ちよく過ごすために使う決まり文句です。同じことばが何度も何度も使われることによって、元々あったことばの意味をいちいち考えなくても使えるように変化しています(たとえば「おはようございます」を使うときを想像してみてください)。
「いらっしゃいませ」も同じように、これを言うときも言われるときも、もともとのことばの意味を強く意識することはなかなかありません。つまり「いらっしゃいませ」は、あいさつ表現として定着しているということです。もともとは客がこちらに来ることを促す表現、呼び込みとして用いられる表現であった「いらっしゃいませ」がすでに店内にいる客に向けても用いられるのは、これがいまや店員から客へのあいさつ表現になっているためです。
「いらっしゃいませ」が実際にどんなふうに使われているか例を挙げながら、このあいさつ表現の特徴について考えてみます。飲食店に入って店員が見えないときを想像してみてください。きっと不安になると思います。こんなときに奥から「いらっしゃいませ」と聞こえてきたらどうでしょうか。満員の店内で店員が大忙しのときも想像してみてください。ここでも「いらっしゃいませ」と聞こえてきたらどうでしょう。あなたはきっと安心して待つことができるのではないでしょうか。
どちらの場合も「いらっしゃいませ」を聞くことで、この後店員が対応してくれると予想することができます。このとき「いらっしゃいませ」のあいさつは、店員が「あなたが来たことに気づいていますよ」という合図として利用されています。これがなかったときあなたは不安で「すみませーん!」などと大きな声で店員を呼びたくなってしまうかもしれません。
この「いらっしゃいませ」は「こんにちは」と同じ使い方だと思うかもしれませんが、実は大きな違いがあります。例えば、私たちが店と取引きのある業者スタッフとして店を訪れるとき、「いらっしゃいませ」と声を掛けられることは普通ありません(きっと「こんにちは」や「おつかれさまです」「おせわさまです」などが使われるでしょう)。そのためさきほど想像してもらった、店員の姿が見えなかったり、店員が大忙しである状況で聞こえてきた「いらっしゃいませ」のあいさつには、店員が「誰かが来たこと」だけでなく、「客が来たこと」に気づいていることが表現されているといえます。だからこそ私たちは、このあと「接客」してもらえると思って待つことができるのです。
もう一つ、私たちが休暇日に、いつも自分が店員をしている店に遊びに行った場面を想像してみてください。勤務日に店員をしているときに来店した友達に会った場合、あなたは「いらっしゃいませ」と言うことができますが、休暇日に友達に会った場合は「いらっしゃいませ」とは言いにくくなるのではないでしょうか。つまり「いらっしゃいませ」は、「店員」として行動しているそのときにだけ「客」に向けて使うことができる、人の役割と結びついたあいさつ表現なのです。