ことばの波止場

Vol. 11 (2022年3月発行)

研究者紹介 : 井上文子

研究者紹介024 : 井上文子(言語変異研究領域 准教授)

方言談話資料との出会い

研究の道に進まれたきっかけを教えてください

生まれ育った関西を離れ、高知市で暮らすようになったことが、方言研究の世界に入るきっかけになったと思います。いっしょに大学に通う友人たちのそれぞれの出身地の方言。耳慣れない高知弁。自分は使わない語形に注意を引かれ、最初はただ興味本位でまねをしていました。

ある日、雨が降っているのを見て、「雨降っチュー」と言ったところ、高知出身の友人に「雨降りユー」だと訂正されました。現在雨が降っている時には「雨降りユー」で、「雨降っチュー」というのは、今は降っていないけれども、地面が濡れているのを見て、雨が降っていたことがわかったときの表現だと。また、こういうこともありました。香川出身の友人に「何しヨルん」と言われるたびに、私は不快な思いをしていました。私の出身地の大阪では「ヨル」は相手を下に見ることばだったからです。ですから、私はその友人から少しばかにされているのかなと感じていました。けれども、ある時、香川の「ヨル」は単なる現在進行形なのだと知りました。さらに、香川では「ヨル」と「トル」で進行と結果の区別を表しますが、その区別は高知ほど完全ではなく、「ヨル」で表される進行を「トル」でも表現することもわかりました。

このようなアスペクトを表す形式が方言によってさまざまであり、その区別のしかたも地域によって異なることに初めて気がつきました。大阪の卑語的な「ヨル」と香川の待遇的には中立の「ヨル」が接近した地域に存在していることにも驚いたものです。すべてが新鮮で、方言のおもしろさにどんどん惹かれていきました。

これまでどのようなご研究をされていましたか

方言のアスペクトをテーマにしてフィールドワークを積み重ね、各地方言の形式や枠組みを比較・対照し、その分布からアスペクトの変化の方向を考えました。進行と結果を区別しなくなるという変化が、西日本方言に見られる大きな流れだと捉えられること、関西の卑語の「ヨル」は歴史的に新しく、アスペクトの進行と結果の統合に関わって発展したものだということ、現在のアスペクト形式の分布は文献上の歴史的変化と相関することなどを確認することができました。

東京に住むようになると、アクセントやイントネーション、語彙などの違いはもちろんですが、話の進め方や会話の際のリアクションに違いを感じることが増えました。もちろん個人差はあるでしょうが、会話パターンにも地域的な特徴がありそうだという直観がありました。このテーマに興味がある研究者たちと、共同でロールプレイ会話を収録して、そのデータを基に、各方言における談話構造や談話展開の地域差・年代差・性差・使用メディアによる差などを考察しました。収録したロールプレイ会話は、『方言ロールプレイ会話データベース』(http://hougen-db.sakuraweb.com/)として公開しています。

今はどのようなことにご関心があるのですか

大学院時代に、質問紙による調査ではなかなか出てこない形式が、地域の会話を記録した談話資料にはたくさん現れるという経験をしてから、ずっと方言談話資料の重要性を強く感じています。さいわいにも、研究所で、文化庁「各地方言収集緊急調査」の録音カセットテープと手書きの文字起こし原稿に出会いました。統一した方法で収録された全国規模の膨大な方言談話資料です。当時、これらの資料は保管されているだけで、ほとんど世に出ていませんでした。それをみんなが使えるようにしたいと思いました。

ただ、もともとの形態のままでは利用が難しいので、カセットテープの録音音声をデジタル化し、手書きの文字起こし原稿を入力して、ひとまとまりの談話としてセットにすることにしました。約200地点ありますが、かなりのところまでたどり着きました。この方言談話資料の整備が、研究所でのライフワークとなっています。以前、資料の一部を『全国方言談話データベース 日本のふるさとことば集成』として刊行しましたが、現在、整備したデータは、「日本語諸方言コーパス」のための基礎データとなっています。

今後のご研究について教えてください

受け継いだ資料を使いやすい形で多くの方々に利用してもらえるように、引き続き、データの整備と保存・公開・活用に力を注ぎたいと思います。その方言談話データを、現在参加している、歴史的言語変種と地域的言語変種に現れる文法的言語変異の対照研究にも役立てたいと考えています。

研究者紹介 024 : 井上文子「方言談話資料との出会い」

井上文子
いのうえ ふみこ●言語変異研究領域 准教授。
1959年大阪府出身。高知女子大学で国語学・方言学を、大阪大学大学院で社会言語学・方言学を学ぶ。大阪大学助手を経て、国立国語研究所には1995年より在籍。