漢文の訓読はいつから始まりましたか。
漢文の訓読と言ったときに、みなさんは学校教育で学んだ決まりを思い浮かべることでしょう。例えば、句読点や返点(レ点、一二点、上下点)、送り仮名などの使い方です。これらのきまりは中学校一年の「国語」で扱われています。
このようなきまりが学校教育の中で統一されたのは、文部省からの調査嘱託を受けた服部宇之吉(1867-1939)らが明治45年(1912)3月29日に報告した「漢文教授ニ関スル調査報告」以後のことです。この報告書の全文は『官報』第8630号に掲載され、国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951987)でご覧になれます。それ以前は、同じ訓読といっても実にさまざまな方法があって、しかも流派(学派)ごとに読み方が違っていたようです。
学校や一般で理解されている訓読は、漢文(中国古典語文)で書かれた文章をそのまま目で追いながら日本語文語文で理解していく読書法です。
もともとは外国語文献に対する読書法なのですが、他の外国語学習と大きく異なる点は、文章全体を外国語として音読することがないこと、漢文で作文することができないことでしょう。もしこれが英語ならば、どんな初心者でも外国語として発音したり、会話をしたり、簡単な英作文ができますが、訓読ではこのような外国語としての学習方法が完全に抜け落ちています。
もっとも明治時代には、ドイツ語の講義を聴いて漢文でノートを取っていたという森鷗外や、清朝からやって来た外交官や学者達と漢文で筆談をしていたという漢学者の逸話もありますが、これは特殊なケースで、一般には読書法に徹していたと言えます。また中には、たとえ漢文であっても本来は外国語文なのだから外国語として、つまり中国語として理解しなければならないと主張した倉石武四郎(1897-1975)のような中国語学者もいて、留学を機に「(訓読法は)玄界灘に捨ててきた」と訓読を厳しく排除する方もいました。
それではこのような訓読はいったいいつごろから始まったのでしょうか。返点などの訓点が付いているもっとも古い文献は、大東急記念文庫にある『続華厳経略疏刊定記(ぞくけごんきょうりゃくしょかんじょうき)巻第五』です。巻末に奈良時代末期の延暦二年(783)と延暦七年(788)にそれぞれ漢文の本文を新羅の正本(しょうほん/せいほん : 標準となるようなテキストのことです)、唐の正本と対校(比較)したという奥書(おくがき : 書物の書写や受領に関わった人の身分・氏名、場所、時期などを記したもので、普通はその書物の一番最後に手書きで記されます)があり、本文中には漢数字で語順を記入した箇所があります。日本語を直接表すような仮名の記入はありませんが、この漢数字の順序は日本語の語順と一致します。ただ、この漢数字は当時の朝鮮語(新羅時代)で読んでも同じ語順になるので、新羅の正本からそのまま写し取った可能性もあり、今後の研究が待たれます。
朝鮮半島のことに話がおよんだので漢字文化圏について少し説明します。日本の文字(ひらがな、カタカナ)は漢字がもとになっていることはご存じかと思いますが、実は漢字文化だけではなく、儒教、律令制、仏教も中国文化が深く影響しています。日本と同じような影響を受けた地域として朝鮮半島とベトナムがあり、中国自身を含めて漢字文化圏と呼ぶことがあります。
それぞれの地域に残っている古い漢文文献をひもといてみると、それぞれの言語で読解した様子が確認できます。句読点や語順を入れ替える符号には共通したものがあり、さらに朝鮮高麗時代12世紀中ごろの『旧訳仁王経(くやくにんのうきょう)』では、漢字の一部を取って作られた口訣(クギョル)が漢文本文に加えられ、日本の訓読と同じように当時の朝鮮語で訓読したことが分かっています。
ベトナムは古い文献が少なく、大半は18世紀以降の版本(印刷本)ですが、朱点(しゅてん : 朱色の顔料を使った書き込みのことで朱筆とも言います)の句読点や固有名詞のマークなどが数多く書き込まれ、また字喃(チュノム)というベトナム製漢字を交えた漢字・字喃交じり文によって漢文の内容を解釈した注記も存在します。これも訓読と呼べるでしょう。
さらに、20世紀初めに中国甘粛省の敦煌莫高窟から発見された敦煌漢文文献の中には、7世紀から9世紀にかけて書き込まれた朱点の句読点や漢字の派生義を表す「破音」(はおん)と呼ばれる符号が見つかっています。中国を中心とする文化的な流れから考えて、敦煌漢文文献で使われていたような符号が、漢文文献とともに日本を含む漢字文化圏諸国に拡大していったと言えるでしょう。
話を日本に戻しましょう。日本語として訓読したことが分かる文献としては奈良時代末ごろまでさかのぼることができますが、漢字漢文で書かれていながら日本語を表している『古事記』や『万葉集』、あるいはもっと古い時代の仏像の光背銘や墓誌銘、鉄剣銘などは、漢字の意味や漢文の構文を日本語で理解していないと作成できなかったはずです。そうすると日本列島の中で考える訓読は、奈良時代あるいはそれ以前の飛鳥時代にはすでに素朴な形がある程度できあがっていたことになります。
薬師如来像を造った経緯が書かれていて、5行目にはその時期を「丁卯年(ていぼう/ひのとう)」と記しています。文字通り読めば推古天皇15年(607)のことになりますが、現在はもう少し年代が降るとされています。全文が漢字だけで書かれ、「造寺」のように正しい漢文の語順で書かれたところもありますが、「大御身」、「勞賜」、「誓願賜」「作仕奉」「崩賜」「受賜」のように日本語の待遇表現を日本語の語順で表している部分があります。
一方、日本列島以外の漢字文化圏の中で考えると、同じような状態が朝鮮半島でもベトナムでも、さらに中国大陸でもあったと考えられるでしょう。漢文の訓読は日本だけではなく、漢字文化圏全体の中に存在した読書方法であったことになります。
さらにもう一歩進めて、この漢字文化圏を中世ヨーロッパのラテン語文化圏に置き換えるとどうなるでしょうか。これはみなさんへの宿題です。ぜひ考えてみて下さい。
国立国語研究所蔵 古活字版尚書(慶長年間(1596-1615)に刊行された尚書の本文に朱筆と墨筆で当時の訓点が書き込まれています。画像をクリックすれば当研究所のデータベースで全体をご覧いただけます。)