第39号(2009年4月1日発行)
私たち日本語教育基盤情報センター 評価基準グループでは,「外国人の日本語」に対する日本人の評価について研究を進めています。「評価」というと,テストや学校の成績のことを連想する人も多いでしょう。しかしここでいう「評価」とは,「あの人の話し方は感じがいい」「あの人の書く文章は分かりにくい」といったような「感じ方」までを含むものです。
最近日本国内では,日本語を使って生活する外国人が増えており,これに伴い日本人側にも,「外国人の日本語」に接する機会が増えてきています。
「外国人の日本語」は,当然「日本人の日本語」とは違います。そして,そうした聞き慣れない・見慣れない日本語に接したとき,一人ひとりの日本人が「どう感じるか」ということについては,非常に大きな個人差があるのではないでしょうか。例えばAさんは,外国人の「敬語の誤り」について,気になってしょうがない,という反応を示す一方で,Bさんは,話し手が外国人だということを考えると,敬語が多少間違っていても全く気にならない,と言うかもしれません。
こういう個人差を踏まえ,日本語教育の立場としてはどう考えるべきでしょうか。敬語の間違いを非常に気にする人は確かにいるのだから,敬語教育はしっかり行うべき,ということになるのでしょうか。あるいは,日本語の敬語習得は非常に難しいのだから,多少間違っても気にしないよう,日本人側にも働きかけるべき,ということになるのでしょうか。
私たちの考え方はこうです:評価の際,敬語の誤りを重視することも,あまり重視しないことも,それは個人の自由であり,他人からとやかく言われることではない。ただ,自分の評価のやり方だけが絶対ではなく,他の人はまた違ったやり方で評価をしているかもしれない,ということに気づく必要はある。そして,自分の評価のやり方は本当にこれでいいのか,ということを,一人ひとりの日本人が自ら問い直せるようになることが大切である。
上記のような考え方に基づき,評価基準グループでは,外国人の日本語(まずは書き言葉)に接し,評価するとき,一般の日本人が(1) どういう観点を使っているか,(2) 観点同士にどのような優先順位をつけているか,(3) 観点の選び方にどのような傾向があるか,等のことを調べています。具体的には,外国人が同じ課題で書いた複数の作文を一般の日本人に読んでもらい,「いちばん感じがいいもの」から「感じが悪いもの」まで順位をつけてもらった後,どういう理由でその順位を付けたのか,ということについて,アンケートやインタビューで答えてもらう,ということをしています。
これまでの調査で,外国人の日本語に対する日本人の評価態度はまさに十人十色であることが分かってきています。評価において,日本語が巧みに使われている,ということを最も重視する人もいれば,内容がよければ日本語の巧みさはほとんど気にしない,という人もいます。また,文章として表現されたことを評価するのでなく,その文章を書いた人がどのような人柄を持っているかを推測し,それを評価しようとしている人もいました。さらに,個人的には「日本語の巧みさ」という点に非常に心惹かれつつも,しかし書き手が外国人であるということを考慮して,その点についてはあえて考慮しないでおこうと努力されている人もいました。どの評価態度も共感できるところはあり,「外国人の日本語はこのように評価すべきだ」と決めてしまうことがいかに無理な話であるか,ということが強く感ぜられます。
日本人は学習者に接するとき,日本語能力の点では自分の方が優位に立っているため,無意識のうちに相手を「上からの目線」で評価してしまいがちになります。それでは対等な人間関係は生まれません。日本人と外国人が,日本語を使ってよりよい人間関係を作っていくためには,日本人自身が,自分自身の評価のあり方を自覚し,それを見直していくことが必要であると私たちは考えています。
つまり私たちの研究は,外国人の日本語能力を向上させるためのものというより,日本人の,外国人との「お付き合い能力」を向上させるための研究であるといえるのです。
私たちの研究成果は,以下のwebページから公開しています。一度ご覧になってみてください。
http://www2.kokken.go.jp/eag/
(宇佐美 洋)
『国語研の窓』は1999年~2009年に発行された広報誌です。記事内のデータやURLは全て発行当時のものです。