手話は、日本語や英語と同じ「言語」であると習いました。では日本手話にも、方言があるのでしょうか。

日本語と同様に、日本手話にも方言があります。日本手話は、話者の間で自然にできた言語で、日本語とは異なる独自の構造をもちます。また、日本手話は、日本の少数言語のひとつです。他の少数言語と異なるのは、日本手話を母語とするネイティブサイナー(ネイティブスピーカーに対応する用語)の比率が少ない点です。両親が手話話者であるデフファミリー出身者は、手話話者人口のうち、10%にも満たないと言われています。つまり、家庭内で言語継承がなされる機会が非常に限られているため、手話は、家庭内よりも聴覚障害児の集団生活の中で発展すると考えられています。
日本では、1878年に京都、1880年に東京、1895年に函館の順に盲唖学校が設立されて以来、日本手話は、現在にいたるまで、全国各地のろう学校および各地域のろうコミュニティにおいて、発達してきました。例えば、数字の「10」の表現は、図1に示すとおり、地域により異なる手型で用いられます。
京都(盲唖教育論:
沼津聾学校(静岡)
東京を含む
大阪
京都
群馬図1の左側から見ていくと、まず、人差し指で「1」を表した後、親指と人差し指の指先を合わせて「ゼロ」を表現する京都市立盲唖院の「10」(a)があります。この表現は、1903(明治36年)年の記録として残されています。(京都市立盲唖院『盲唖教育論:附・瞽盲社会史』)次に、唇の右横に人差し指を置き、口元を「ゼロ」に見立てた「10」(b)は、沼津聾学校で、昭和50年代末(1984年)頃まで使われていたようです。一般的には、人差し指を曲げる表現(c)が使われており、これは、「NHK手話ニュース845」でも使われています。
この他にも、大阪(d)、京都(e)、群馬(f)の表現が記録されており、これらは現在も、各地で一般的な表現とともに、使われています。大阪の「10」は、人差し指と親指の指先をつけ、他の3本の指を立てて表し、京都の「10」は、すべての指をまるめて指先を親指につけ、手全体が「0」に見える手型で表します。また、群馬の「10」は、親指の先を、人差し指の第一関節に添えて表します。
一方、手型が同じでも、一般的に使われている意味とは異なる意味で使われている語があります。例えば、右手の親指と小指を立て、親指を鼻に当てて斜め前に出す表現があります。これは、一般的に「得意」という意味で使われています。

この《得意》※1から意味が展開した表現に、親指と小指を立てた右手を鼻の位置から斜め下に出して、同時に口を「PO(ポッ)」の形に開く表現があります※2 ※3(図2)。この手の動きを変えて口の動きを加えた表現は、もともとの「得意」という意味から、「思いのほかよくできる」という意味に転じ、会話の中では、「どうしてそのようなことが起こったのか?」という疑問形の意味になります(木村晴美、市田泰弘『はじめての手話-初歩から楽しく学べる手話の本』p.98)。
※1 手話表現の表記には《 》を用いています。これは、ラベルと呼ばれており、日本語訳とは異なります。
※2 この手話特有の口型を手話言語学では「マウスジェスチャー」と言います。
※3 手を斜め下に動かさず、そのままの位置で表すバリエーションもあります。
この表現は全国各地で使われていますが、「どうして」「なぜ」という意味のほかに、松山では、「できる」「まだ~がある」の意味があり、札幌では、「うらやましい」の意味で使われています。各地域で使われる《得意》を使った例文を以下に示します。
《会う》
《得意》
《PT2》(木村晴美、市田泰弘『はじめての手話-初歩から楽しく学べる手話の本』p.98 を元に筆者作成)
※ PTは、指さしを示し、PT1は一人称、PT2は二人称、PT3は三人称です。
《PT2》
《PT1》
《娘》
《覚える》
《得意》
《PT2》
《学校》
《先生》
《手話》
《できる》
《PT3》
《得意》その他の地域でも、様々な意味で使われていることが推測され、今後各地域でのさらなる調査が必要とされています。
日本手話にも、東日本の手話、西日本の手話と言われる語があり、その例として、「名前」の表現が手話話者の間で一般的に知られています。図3に示すように、東日本の「名前」は、左手のひらに右親指を当て、西日本の「名前」は、右手の親指と人差し指で作った丸を左胸に当てます。東日本の「名前」は、捺印を、西日本の「名前」は名札のさまを表すと言われています(米川明彦監修・日本手話研究所編『新日本語-手話辞典』p.1083)。

しかし、手話方言の伝播は、ろう学校の歴史、教員の異動との関係性が強いと言われています。例えば、大阪と函館には、歴史的なつながりがあり、共通した地域独自の表現が使われています。大正末から1949年まで、私立函館盲唖院長であった佐藤在寛と、1924年に大阪市立聾唖学校長となった高橋潔との間で交流があり、函館の手話は大阪の手話とろう教育の場において、約15年の接触があったと言われています(清野茂「昭和初期聾唖教育における高橋潔と佐藤在寛」『北海道社会福祉史研究』8 pp.1-7)。
このような歴史的背景を映し出すかのように、大阪の手話と函館の手話には、共通している語が多くみられます。例えば、古くから大阪で使われていた、1~9を表す手型と桁数を示す単位の表現を並べて表す数詞体系(図4-a)が、函館では、現在(筆者調査:2024年9月)においても使われています。全国的には、東京を中心として使われてきた、1~9を表す手型と桁数を示す動きを組み合わせて表す数詞体系(図4-b)が、日本手話の一般的な表現になりました。例として、「6537」を以下に示します。


海外においても、台湾や韓国では日本占領時代にろう学校が設立されており、派遣された教師により当時の日本手話が伝えられました。現在の台湾手話や韓国手話は、日本手話と共通する要素を多く含んでおり、とくに、台北の手話は東京、台南の手話は大阪の手話から派生した特徴をみとめることができます。このように、教員の異動は手話のつながりに大きな影響を及ぼしています。
手話の表出の仕方や、手の動きの強弱・スピード・リズムなどの違いについては、まだはっきりした記述研究はないのですが、手話にも手の形、位置、動きなどによる変化が起こること、その変化が地域ごとに独自にみられることがわかっています。このように、日本手話においては、日本語と同様に、構成要素、語彙、文法、語用論等のあらゆる側面で地域差があると考えられますが、実態の把握には、さらなる調査研究が必要です。