「~する気だ」という言い方は「~するつもりだ」と同じような表現だと思いますが、違いはありますか。違うとしたらどんな関係にあるのでしょうか?

「気だ」や「つもりだ」は、以下のような場合に使われることの多い形式です。
(1)の例では、「気だ」も「つもりだ」も、山田さんがある秘密を話そうという気持ちを持っていて、これからそれを実行する、ということを表しています。そのような意味内容を、ここでは〈意志〉と呼びたいと思います。
(1)のような例を見ると、確かに「気だ」と「つもりだ」はよく似た表現のように感じられるかもしれませんが、実際にはどちらを使ってもよいケースは多くなく、一方のみが自然となることが普通です。比較的すぐに気づく違いとしては、次のような場合があります。
(2)では「つもりだ」を使うことは何の問題もありませんが、「気だ」を使うことはできません。この原因がどこにあるかというと、(1)において「話す」のは山田さんでしたが、(2)では話し手である「私」である、ということです。つまり、「つもりだ」は話し手自身(一人称)の意志を表すことも話し手以外の第三者(三人称)の意志を表すことも可能ですが、「気だ」は三人称の意志のみ表すことができ、一人称の意志は表せないのです。
ところが話はさらに複雑で、次のような使い方があります。
(3)は否定文の例ですが、この場合は一人称の意志であっても「気だ」が使えるようになります。一見すると不思議な現象に思えますが、なぜこのような振る舞いを見せるのか、以下で説明していきたいと思います。
はじめに確認しておきたいのは、「気だ」において意志の主体が三人称でなければならないという特徴は、現代の日本語に見られるものであって、かつては違ったということです。「気だ」が使われるようになるのは江戸時代(だいたい18世紀の前半)ですが、そこから明治~大正時代ごろに至っても、一人称の意志を表すのに「気だ」を用いている例を見つけることができます。
米「今日は私も覚悟をして、おまへがうち解けておくれなら、一晩止宿てゆるゆると、いろいろの咄しもしようし、看病もしてあげる気だから、お長さんによくのみ込せて来たから、その気でおいでな」
(春色辰巳園〔1833-35年〕)
「サンクス。僕は借りる気だが、君は呉れる積だろうね。如何となれば、僕に返す手段のない事を、又返す意志のない事を、君は最初から軽蔑の眼をもって、認めているんだから」
(夏目漱石『明暗』〔1916年〕)
それぞれ「私」「僕」という一人称の意志を表す例ですが、「気だ」が使われています。(5)は面白い例で、「気だ」のすぐ後で「積だ(つもりだ)」も使われていて、特に違いがあるようには感じられません。「僕は借りるつもりだが」と言ってもよかったと思われるのですが、実際には「気だ」が使われているわけですから、この時期においては「誰の意志を表すのか」という点はあまり関係なく、「気だ」と「つもりだ」が同等の表現として機能していたと考えられます。
それでは、なぜ現代語の「気だ」は三人称の意志を表す例に偏るのでしょうか。この点については「気だ」と「つもりだ」を一種の“ペア”として考えるとうまく説明できるように思います。先ほど「つもりだ」は一人称の意志も三人称の意志も表せると述べましたが、実際には一人称の意志を表す場合に用いられやすいことが分かっています(比率としては75%程度)。しかも、この傾向は江戸時代から現代まで一貫して見られるものです。ここで、「つもりだ」は一人称の意志を中心的に表していることから、ある種の役割分担をするような形で、「気だ」が三人称の意志を表すように変化していったという説が想定できます(他にも、一人称の意志を表すためには「~しよう」や「~する」といった別の形式が存在するといった点も重要となってきます)。

「気だ」と「つもりだ」に“ペア”的な関係があったとしても、まだ疑問が残ります。それは、否定形の「気はない」なら現代でも一人称の意志を表せるのはなぜかということです。これについては、「気だ」と「つもりだ」の否定形がいつ登場したのかという点から考えたいと思います。

イラストにあるように、「気だ」は18世紀の前半、「つもりだ」も同じ18世紀の後半には登場します。一方、否定形の「気はない」の登場もやはり18世紀の前半なのに対し、「つもりはない」は20世紀初頭になるまで現れません。つまり、肯定形の「気だ」「つもりだ」に比べて、否定形の「気はない」「つもりはない」は“ペア”としての併存が短期間にとどまっていることになります。そのため、「誰の意志を表すのか」による役割分担が生じるには至っていない、と考えられます。

このように、「気だ」と「つもりだ」は似たような内容を表せるものの、その特徴には大きな違いがあり、その背景には複雑な歴史的事情が絡んでいると言えます。最後に、「気だ」にはまだ詳しくは明らかにされていない興味深い現象がありますので、紹介したいと思います。
マンションの玄関まで送ったら、乗ってきたタクシーでそのまま帰る気でいたのだ。(村山由佳『きみのためにできること』)
一つ目は、(6)のように「気でいる」の形にすると一人称の意志を表すことも可能になるという点です。他にも「~する気で、…した」のような場合も、比較的言いやすくなるようです。二つ目は、(7)のように過去の自分の行動を振り返るといった文脈に置いた場合にも、一人称の意志を表しやすくなる点です。これについては、文の話し手が出来事をどのように観察し捉えているかが関係するのではないかと指摘されており、詳細な検討が行われつつあります。こうして、新たに生まれてくる疑問が、研究の可能性を拓いてくれるのです。