日常生活の中で、論理的に書いたり話したりするためには、どのようなことに配慮すればいいでしょうか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』18号(2005、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
文章や話が「論理的である」とはどういうことか、きちんと定義するのは難しいですが、ここでは、(1)「主張」とそれを支える「根拠」があり、(2)その「主張」と「根拠」とが適切につながっている、ということを、「論理的である」ための最低条件と考えることとします(参考文献①)。
しかし時には、「主張」と「根拠」とが適切につながっているのかどうか、人によって意見が分かれることもあります。
例えばだれかが、「昨日もうどんだったから、今日はうどんはやめようよ」と言ったとします。
ここでは、「今日はうどんはやめよう」というのが「主張」、「昨日もうどんだった」というのがその「根拠」ということになります。日常生活の中でこうした発話は、特に違和感なく受け入れられるものでしょう。しかし中には、「昨日うどんだったからといって、今日もうどんではなぜいけないの?」と思う人もいるかもしれません。果たしてこういう場合、「主張」と「根拠」とは、適切につながっていると言えるのでしょうか。
これらの「主張」と「根拠」の間には、両者をつなぐものとして「同じものばかり食べると飽きる」または「栄養が偏って不健康になる」という「暗黙の前提」が存在していると考えることができます。話し手と聞き手とがこうした前提を共通のものとして持っていれば、一見かけ離れているように見える「主張」と「根拠」も、水面下ではちゃんと関連付けられている、ということができるのです。
しかしこうした「暗黙の前提」は、すべての人々が共有しているとは限りません。世間には、「うどんが大好きで、毎食食べても全然飽きない」と言う人や、「多少健康を損なっても、好きなものを好きなだけ食べるのが人生の幸せだ」と考える人がいても不思議ではありません。そういう人々にとっては、「昨日もうどんを食べた」という事実は、今日うどんをやめるための「根拠」とはならないでしょう。その人がどういう「暗黙の前提」を持っているかによって、「根拠」と「主張」とがうまくつながったりつながらなかったり、ということが起こり得るのです。
とはいえ、何らかの「主張」を論理的に行おうとするとき、「暗黙の前提」に頼ってはいけない、ということではありません。我々は日常生活においても、厳密な学問の世界においてさえも、この種の「暗黙の前提」をうまく活用しながらコミュニケーションを行っています。「暗黙の前提」を一律に排除する、というのではなく、それを上手に使って効率的に話を進める、という工夫が必要なのだと思います。
そこで提案です。「主張」と、それに対する「根拠」を考え出したら、「『主張』と『根拠』をつなぐものとして、どのような『暗黙の前提』が存在するか」、「その『暗黙の前提』は、想定される読み手・聞き手も共有しているものなのか」ということを、必ず一度は考えてみることにしてはどうでしょうか。そしてもし「暗黙の前提」が十分に共有されていないと思われた場合は、どんな追加説明が必要になるか、または「根拠」自体を差し替える必要がないか、ということを次に考えていくのです。
それは言い換えれば、聞き手や読み手の立場にも立って考えてみよう、ということでもあります。論理的に物事を伝える、ということの中にも、他者に対する配慮はやはり必要なのです。
(宇佐美 洋)