周囲を見渡すと、ローマ字表記にいろいろな種類があるのですが、どうしてでしょうか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』14号(2001、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
日本で主に用いられているローマ字表記には「訓令式」と「標準式(ヘボン式)」の二つがありますが、それ以外にも「日本式」と呼ばれる表記もあります。三者の違いの一部をあげると次のようになります。
文部省通達(昭和28年)では、訓令式を基本としつつ、別表で標準式の使用も認めていますが、パスポートの氏名のローマ字表記は、標準式が原則となっています。また、パスポートでは、本人の申し出により長音を「OH」で表記できることになっています(ただし、姓名のフリガナに「オオ」「オウ」を含む場合に限る。「長音(OH)を含む氏名の取扱いについて」外務省大臣官房領事移住部旅券課、平成12年4月)。
遠山(トオヤマ)TOYAMA/TOHYAMA
河野(コウノ) KONO/KOHNO
このように複数のローマ字表記がある背景には、「何のためのローマ字表記か」ということがあります。
日本語をローマ字で表記することは、16世紀頃にキリスト教布教の外国人宣教師によって始められたと言われています。日本語の音を外国のそれぞれの言葉の表記法にあわせて表記するわけですから、ローマ字表記の方法も国によって違うものになります。例えば、『サントスの御作業の内抜書』(1591)、『平家物語』(1592)などの「ローマ字本」はポルトガル語式ローマ字(タ行は「ta・chi・tcu・te・to」)で書かれています。また、18世紀初頭から幕末にかけては、蘭学者によってオランダ語式ローマ字(タ行は「ta・ti・toe・te・to」)が用いられました。
明治から大正にかけては、ドイツ語式ローマ字(タ行は「ta・tsi・tsu・te・to」)、フランス語式ローマ字(タ行は「ta・tsi・tsou・te・to」)などが見られますが、最終的には、アメリカ人 J・C・ヘボン(J.C.Hepburn)が編纂した和英辞書『和英語林集成』で用いられた英語式ローマ字(タ行は「ta・chi・tsu・te・to」)が普及しました。現在の標準式(ヘボン式)ローマ字はこれがもとになっています。
タ行の例からもわかるように、欧米人によるローマ字表記は基本的に発音の違いに即したものになっています。その結果、日本語の五十音図の配列とずれるところも出てきます。例えば、「ti」「tu」の綴りは英語では「ティ」「トゥ」と発音されるので、日本語の「チ」「ツ」の音を表すには「chi」「tsu」のような別の綴りが必要になります。しかし、「チ」「ツ」は五十音図ではタ行に属しますから、「チ」「ツ」も「ti」「tu」と表記する方が、五十音図の配列に即した合理的な表記であるという見方も成り立ちます。そこで、物理学者の田中館愛橘は、1886(明治19)年に、五十音図の配列に即した、いわば「日本人のための」のローマ字表記法(日本式ローマ字)を提唱しました。
昭和に入り、1930(昭和5)年に臨時ローマ字調査会が設けられ、1937(昭和12)年にローマ字の綴り方の「訓令」が出され、現在の訓令式ローマ字が定められました。これは日本式ローマ字を基礎として、「ジ/ヂ」「ズ/ヅ」「オ/ヲ」のように発音が同じになる部分を整理したものです。その後、1954(昭和29)年に、標準式ローマ字も許容する内閣告示第一号「ローマ字のつづり方」(訓令新表)が発表され、現在にいたっています。
このように、ローマ字表記には、「外国の人が読む」ことを重視する流れと、「日本語の体系に即している」ことを重視する流れとがあります。パスポートのローマ字表記は前者、学校教育のローマ字指導は後者に基づくものといえます。ローマ字表記をめぐる議論は、いかにこの二つの流れのバランスをとるかという議論であり、今後も「何のためのローマ字表記か」をめぐって議論がなされていくものと思われます。
なお、ワープロのローマ字入力は、標準式、訓令式のいずれでも入力できますが、「ぢ、づ、を」の字を出す際には「di、du、wo」と入力する必要があります。また、五十音図にない音を含む外来語を入力するために、「チェ(che、tye)ック」「ファ(fa)イト、」のように訓令式・標準式の表記を拡張したり、「ディ(li)スコ」のように、便宜的な綴りをあてたりしています。
【補記】現在文化庁では内閣告示の改正が検討されています(2023年11月現在)。