「方言」というのはどのようなことばのことですか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』16号(2003、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
「方言」は、一つの言語の中での地域によることばの違いですが、その中のどこに目を向けるかによっていろいろなとらえ方ができます。
例えば、「『トーキビ』は北海道の方言だ」のように、ある地域に独特の単語を指して「方言」ということがあります(「トーキビ」は「とうもろこし」のことです)。
しかしどこのことばも、独特の単語だけでできているわけではありません。全国どこでも「木」や「雨」は共通語と同じ「キ」「アメ」ですし(ただし発音やアクセントが違うことはあります)、単語以外にも、アクセント、イントネーション、文法、表現法など、ことばにはいろいろな側面があります。このような面をすべて含めた一つの地域のことば全体もやはり「方言」です。この意味での「方言」に近いのは、「津軽弁」「河内弁」などの「~弁」という言い方です。一方、ある地域のことばに特有の単語のことは、「俚言」と呼ぶことがあります。
「方言」を思い浮かべるときには、強くは意識しなくても漠然と、「共通語」や「標準語」と対比していることが多いのではないでしょうか。正式な改まったことばではなく、ふだんのうちうちのことばという感覚です。方言と共通語は本来、どちらかが正しくてどちらかが正しくない、という関係にあるわけではないのですが、規範的あるいは一般的な日本語からずれたことばとして「方言」がとらえられていることがままあります。発音を中心に、どことなく共通語と違った特徴を感じさせる話しぶりのことを「なまり」というのも、同様の見方の反映です。
一方、方言は「地域によることばの違い」なので、共通語とではなく、他の地域のことばとの比較によってとらえることもできます。「隣(の村)はことばが違う」と感じるときのとらえ方です。全国を見渡すと、例えば、青森と鹿児島ではことばが違うので、それぞれ「青森方言」「鹿児島方言」であり、東京のことばは青森とも鹿児島とも違うので「東京方言」である、ということになります。よく「東京には方言がない」と言われます。確かに東京のことばは共通語に近いのですが、俚言も多少ありますし(三井はるみ「解説1」、国立国語研究所『新「ことば」シリーズ16 ことばの地域差―方言は今』)、この見方によれば、東京という地域のことばは、共通語と近いか遠いかは別にして、「東京方言」であると見なすわけです。
ある一つの地域で話されていることばは、決して一様ではありません。特に現在では、共通語の浸透によって伝統的方言の衰退と共通語化が進み、全般的には、年齢の若い人のことばほど方言的特徴が薄く共通語に近いという年齢差となって現れています(米田正人「問9」、国立国語研究所『新「ことば」シリーズ16 ことばの地域差―方言は今』)。若い人が新しく使い始めたことばに新たな地域差が見られることもあります(陣内正敬「解説3」、国立国語研究所『新「ことば」シリーズ16 ことばの地域差―方言は今』)。
このような若い人たちのことばもその地域の方言の一つの姿なのですが、「方言」というと、古くからの特徴の豊かな高年層のことばだけを指すと受け取られることもあるようです。そこで、地域で今実際に使われていることば全体を指すということを明確にするために、新たに「地域語」という呼称も用いられ始めています。また、生活に根ざしたことば、という意味で「生活語」と呼ぶ人もいます。
地域の中のことばの多様性は年齢差に限りません。場面によって方言と共通語を使い分けるのはごく普通のことです(尾崎喜光「解説2」、国立国語研究所『新「ことば」シリーズ16 ことばの地域差―方言は今』)。また居住者の出身地は、特に都市においては様々であり、そのような多様な構成員を抱えることは地域のことばに影響を与えています。
ここでは「方言」を「地域によることばの違い」として見てきました。このほか、日本語の多様性全体を視野に入れて、ここでいう「方言」を「地域方言」とし、話し手や場面などによることばの違いを「社会方言」とする位置付けも行われています。
(三井はるみ)