共通語を話していて時々「言いたいことがうまく言えない」と思うことがあります。方言だとぴったりくる言い方があるのですが。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』16号(2003、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
私の母語(子どものときに自然に身につけたことば)は、富山県西部の井波町※のことばです。大学進学と同時に井波を離れ、以後20年以上(帰省したとき以外は)共通語を使っていますが、今でも共通語の表現ではしっくりこないと思うことがあります。
たとえば、井波町方言では「軽い敬意」を表す尊敬表現が発達しており、親しい知人に対して、少しあらたまった感じで、
アンタ、明日ウチ オイデル(オッテヤ)?
(あなたは明日家にいらっしゃる?)
と言うことができます。「オイデル」「オッテヤ」は「いらっしゃる」にあたる尊敬表現ですが、共通語の「いらっしゃる」ほどあらたまった感じはなく、親しい間柄でも気軽に使えます。「アンタ、明日 ウチ オル?」(あなたは明日家にいる?)というのはぞんざいな感じがする、もう少しあらたまった感じで言いたい、というときに「オイデル」「オッテヤ」のような軽い尊敬表現を使うわけです。しかし、共通語には「いる」と「いらっしゃる」の中間にあたる言い方がないので、「少しあらたまった感じで言いたい」というときはいつも困ってしまいます。
敬語は「敬意」という話し手の気持ちを表すものですが、敬語に限らず、感情や感覚、聞き手に対する態度といった話し手の内面にかかわる表現は、方言を母語とする人にとって共通語の表現ではしっくりこないことが多いものです。
たとえば、井波町方言には「疲れた」という気持ちを表す「ダヤイ」という形容詞があります。「ダヤイ」と言っても、だれも分からないので、ふだんは「疲れた」と言いますし、それで特に違和感はないのですが、本当に疲れてすぐに休みたいときは、やはり「ダヤイサカイ 寝ル」と言いたくなります。「疲れたから寝る」と言うと、自分でも「無理して言っているな」という気持ちになることがあります。
人に命令をする場合にもこれに似たことがあります。朝ぐずぐずしている子どもを早く学校に行かせようとしてせかす場面を考えてください。井波町方言ではこの場合、「ハヨ 行ケ」(早く行け)のほかに、形の上では「早く行こう」にあたる「ハヨ 行コ」が命令的な意味で使えます。「ハヨ 行ケ」は相手に有無を言わせず命令する強い命令ですが、「ハヨ 行コ」は「相手をその気にさせようとする」という気持ちを含む少しやわらかな命令で、子どもに何か命令するときにはよくこの形が用いられます。ぐずぐずしている子どもをせかすときに最もしっくりくるのも、この「ハヨ 行コ」です。そのような感覚の私にとって、「早く行け」ではいかにも乱暴だし、「早く行きな」は少しぞんざいな感じがする。「早く行って」はどこか気取った感じがするし、「早く行きなさい」は上品すぎる。というわけで、ぐずぐずしている子どもをせかすときには、どうしても「ハヨ 行コ」と言いたくなります。
いささか大げさな感じがするかもしれませんが、これに近い体験をお持ちの方は少なくないと思います。
人間にとって、子どものときに身につけた母語は「ウチなる文化」の一つです。人それぞれになじんだ習慣があるのと同じように、ことばも自分の母語が最もしっくりくるものです。その意味では、方言を母語とする人にとって「共通語の表現ではしっくりこない」と感ずることは避けられないことだと言えます。
また、方言は地域の生活に密着したことばであり、母語話者でなければ実感できない事柄をたくさん含んでいます。共通語とは、そのような母語話者にしか実感できない部分を捨象し、だれにでも分かるようなコミュニケーションを行うための道具ですから、方言でなければ表せない事柄がすくいとられていないという面もあります。「共通語では言いたいことがうまく言えない」と感ずる背景にはそのようなこともあるのです。
※富山県西部の井波町は、現在の富山県南砺市井波地区。