にぎりずしを数えるとき、「一カン、二カン」と言います。この「カン」とは何ですか。またどのような漢字で書けばよいですか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』14号(2001、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
すしを数えるときの「かん」が、二個を単位にするのか一個を単位とするのか、文献の上では確かめることが困難で、さらに「かん」とはなにかの諸説のうち、どれか一つだけが正しいのだ、と証明することは不可能といえそうです。
国語辞書で「カン」の項目をひいてみると、「干、刊、甘、…」とたくさんの「カン」が並んでいます。ここでは、数字のあとにつけて物を数えることば(助数詞)ですから、「接尾」という略号をつける「接尾語」や、「~を数える単位」とか「助数詞的にも用いる」と説明のある項目「巻・竿・貫・管・串」に注目します。
「巻」は、もと巻物だった本の冊数や巻数、あるいは全集の順序をあらわし、雑誌一年分を単位として数えたり、映画のフィルムを数える場合にも使います。「竿」は旗竿などを、「管」はくだ状になった楽器や筆などと数えます。「貫」は金銭や重さの単位です。
では、細長いものを数えるのが「竿」で、くだ状のものを数えるのが「管」、串や糸あるいは縄でものを刺し通したものをまとめて数えたのが「串」や「貫」ですが、例えばもし「串」だとすると、なぜ「くし」ではなく「カン」なのでしょうか。さらにまた「貫」は、過去の文献では、仏具の数珠の助数詞に用いられ、一般には「連」も使われたようです。
以上のように辞書には、「すし」の助数詞「かん」が何であるかは、明らかには見当たりません。
さて、「すし」二個をまとめて数えるということは、ほかの助数詞とは違う独特な数えかたとはいえないでしょうか。ほかには、屏風を一対にして「双」と数えたり、鳥や動物の雌雄を「番」と数えます。では、二つを一つに数えることばに「かん」があるでしょうか。
ある国語学者は、二個を単位として「カン」と数えるのは、天秤棒や振り分け荷物を背負って運んだむかし、両端にぶらさげた荷物をいっしょに「荷」と数えたのと関係がある、という仮説をたてています。
そこで江戸時代の近世の「書札礼」にでてくる助数詞の研究を参考にします。「書札礼」とは、近世武家の手紙の形式や文字のきまりを規定した本です。手紙の文例集(「往来物」)や百科事典風の国語辞書(「節用集」類)などの普及書と合わせて出版されることもありました。この中で、寛政九(1979)年の『大成筆海重宝記』に、樽を「二ツは一荷」、現代のトランクにあたる葛籠や挟箱を「二ツ一荷」、『新板用文章』では、樽を「一樽・一荷ハ二ツ」とあるそうです。近世に、二つを単位に物を数える助数詞「荷」が使われたことは証明されます。
にぎりずしは、文政十(1827)年の俳諧書『柳多留』に「妖術という身で握るすしの飯」と初めて見られ、それ以降、流行したと考えられています。
にぎりずしを荷物にみたてて「荷」と二個を単位に数え、「カ」が「カン」になったとする仮説は、以上のように、途中までは文献上の証明ができます。「カ」が「カン」に訛ったかどうかは未解決です。
また大正九(1920)年の志賀直哉の小説『小僧の神様』で、すし一個が実際には六銭で、四銭だと思っていた小僧が一度触った鮪を店に戻す場面があります。明治以降大正時代まで、十銭のことを「一貫」と俗に呼んでいたので、一個五銭のすし二個で十銭すなわち「一貫」ではなかったか、という別の説です。(服部栄養専門学校教授 飯野亮一氏説)
さて、現代のすし店では、「かん」は、すし二つを数える場合と一つを数える場合との両方があります。一個づつを「かん」と数えるのが本来とする説が有力だそうです。当初、大判の海苔を使ったのり巻き一本の長さの三分の一が、すし一個の大きさと同じだったことから、同じ「巻」で数えるのだそうです。二個をいっしょに出すのは、勘定を簡単にするためで、すしの屋台の前には算盤のような玉があり、客が食べたすしの数を二個単位に玉をうごかし覚えにしたそうです(全国すし環境衛生同業組合連合会会長 森茂雄氏説)。ただしその当時、二個を数える単位があったのか、その単位が何であったかは伝わっていません。
(山田貞雄)