「いちかばちか」は、「一か八か」だと思っていましたが「一か罰か」とも書くそうです。どちらが正しいですか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』14号(2001、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
この慣用句には二通りの解釈があります。
一つは、賭博の「丁半」からきているとする説です。「丁(偶数)」か「半(奇数)」かを賭けることから、「丁」の第一画の「一」と「半」の旧字体「」の第一・二画の字形「八」のことだ、という説です。文字の省略としては有り得ることです。ただしこの説は、なぜ清音「ハチ」ではなく濁音「バチ」なのか、不明です。
もう一つは、さいころ賭博で「ぴんころがし」という賭け事があります。賽を順に振って「一」(「ぴん」)の目がでたら、その目が出るまで他の人が賭けつづけ累積した札全部をとることができることから、「一」の目か、それ以外の目か、という意味だという説です。
「一」以外の目を「ばち」というのは「罰」のことで、「罰」の慣用音(日本の漢字音のうち、中国の漢字音にちかい漢音や呉音、唐音ではないが一般的なもの)「バチ」と考えられます。つまり「悪いことをした報い・たたり」という意味で、「よくない事・しくじり」をあらわしていると思われます。
たしかに、日本語では「八」の漢字には濁音の字音がなく、さらに中国や日本では古来「八」にはむしろめでたい意味やありがたい語感を抱いてきている(鈴木修次『数の文学』)ので、この最良の「一」以外のものを「八」という漢数字で書き表すのは不自然のようです。
ただし、これらの説のどちらが正しいのか、どちらか一方が間違っているのかどうか、を断言するためには証明の材料が足りません。
むしろこれらの説を言い伝えてきた、という伝承、つまり「ことば」の文化の問題ということになりそうです。実際に、近世の浄瑠璃などでは、漢字の表記として「八」も「罰」も両方使われています。
さて、これに似た「ぴんからきりまで」は安土桃山時代に西洋文化の影響を受けた「天正カルタ」がその由来であるといわれています。
「ぴん」は、もと「点」を意味するポルトガトガル語「 pinta 」で、カルタの一をあらわすという説が定説になっています(新村出「賀留多の伝来と流行」『南蛮更紗』)。これに先立つ、大槻文彦の国語辞典『言海』(明治24年)で「一点ノ意ナル西班牙語 Punto(英語 Point )の転訛ナラム」とそのもとの外国語に関する言及が見られ、その説が発展したようです。国語辞書『俚言集覧』の増補改訂(明治33年)版でも「カルタ又ハ双六ノ目ナド一ヲイフ」としています。
一方、「きり」も同じく「十字架」を意味する「 cruz 」の訛りだと言う説があります(あらかわそおべえ『外来語辞典』)。それよりも前に、まだ原語について言及はありませんでしたが、江戸中期の百科事典『和漢三才図会』で、十二番目の札の名が「岐利」という外来語(「蛮語」)だとし、江戸後期の国語辞書『和訓栞』で、「きり」は外来語で、十の数に関連があるという記述があります。
天正カルタでは、トランプの王にあたる絵札「きり」は、一から九までの数字につづく絵札の三番目で、全体の十二番目にあたり、「十」にはあてはまりません。むしろ日本語の「区切り・極限」の意で「切り・限り」ではないかという説があります。(佐竹秀雄「サンピン・ピンキリ」)
ところで、天正カルタの「一から十または十二まで」つまり、「始めから終わりまで」という意味が、どうして、「最上・上等なものから、最低・下等なものまで」という意味になったのかは、わかりません。カルタ遊びでは数の最小「一」、最大「十二」ともに最強である可能性があるとのこと(山口吉郎兵衛『うんすんかるた』)ですが、実際のカルタの技法上での札の役目に関係することかも知れません。
おなじカルタ用語から生じた慣用句では、「うんともすんとも(言わない)」があります。これはポルトガル語の「一(ウン)」と「最上(スンム)」をさしているという仮説があり(新村出「賀留多の伝来と流行」『南蛮更紗』)、カルタの技法上も裏付けられています(山口吉郎兵衛『うんすんかるた』)。
このように、語源や由来の問題というのは、「ことば」以外の各分野からの検証が必要な場合があります。逆に言えば、各分野からのアプローチが可能である、とも言えましょう。
(山田貞雄)