世界にはいくつの言語があるのでしょうか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』14号(2001、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
2022年現在、世界には二百ほどの国と地域が存在しますが、言語の数はそのくらいのものではありません。数え方によってさまざまですが、だいたい三千から七千くらいの間だろうと言われています。
実は「国」という単位と「言語」という単位とが一致しないということは、世界ではごく普通のことです。例えばシンガポールには「シンガポール語」というものはありません。この国には中国系のほか、インド系・マレー系などさまざまな出自をもつ住民がおり、中国語・英語・タミル語・マレー語など多様な言語が話されています。逆の言い方をすれば、中国語や英語のような言語は、一国家の枠をはみ出して広い範囲で用いられているということでもあります。
それにしても世界の言語の数が三千から七千というのではあまりに開きがありすぎます。なぜもっとはっきりとした数を挙げることができないのでしょうか。
そのいちばん大きな理由は、「言語」と「方言」とを区別する客観的基準が存在しない、ということです。
同じ言語の話し手同士でも、よく観察してみるとひとりひとりが話す言語の実態は違っています。特に地域による違いは大きく、例えば青森県の人と鹿児島県の人の間では、お互い注意しなければ意思の疎通が難しいこともあります。それでも、青森の人も鹿児島の人もともに「日本語」というひとつの「言語」を話しているものとされ、それぞれ、日本語のなかの青森方言、鹿児島方言と呼ばれています。
一方、インドやパキスタンを中心とする南アジアには、「ヒンディー語」「ウルドゥー語」と呼ばれる言語が存在します。実はこれらふたつの言語はかなりよく似ており、話しことばでは十分に相互理解ができるのですが、それでもこれらは同じ「言語」の別の「方言」であるとは考えられず、それぞれ「ヒンディー語」「ウルドゥー語」という独立した「言語」とされています。
このように、「言語」と「方言」の境目は、場合により非常にあいまいです。その理由は、「言語」と「方言」との境はいわばその話者の「自己申告制」によって決まるのであって、言語学者がきちんと定義して決めているのではない、ということによります。
日本で話されている言語が「日本語」という一単位にまとめられるのは、それを話す人々が、自分たちは「日本語」という共通の言語を話しているという自覚を(お互いに通じ合わなくても)、もっているからです。一方ヒンディー語の話者とウルドゥー語の話者は、お互い十分に会話ができるにもかかわらず、宗教が違っており(ヒンドゥー教徒はヒンディー語、イスラム教徒はウルドゥー語)生活習慣も異なるため、お互い別々の人間集団に属していると考えており、話している言語も別々だと意識しているのです。実はそういう主観的な理由によって言語同士の境は決まっています。
ここで注意しなければならないことは、インドはヒンディー語、パキスタンはウルドゥー語、というように、国と言語とを単純に結びつけることはできないということです。インド国内にも自分はウルドゥー語話者であると自覚している人は何千万人もおり、ウルドゥー語はジャンムー・カシミール州の公用語となっています。
言語同士を分けるものは、「自分が何語話者であるか」といった、話者本人の意識です。そしてこの意識は、国境の存在によって作られることもあるとはいえ、本質的には国家とは独立して形成されるものなのです。インドの憲法には二十二の言語が記載されていますが(2022年現在)、それはインド国内に二十二しか言語が存在しないということではありません。憲法内で明確に指定された言語が二十二ある、ということなのであって、それ以外にも多数の言語が存在しています。国家や役所に公認されたものだけが言語というわけではないのです。
場合によっては、話者自身は自らの言語を「○○語」であると意識しているのに、国家にはそれが認められず、ひどい場合には弾圧され、滅ぼされたりする、ということもあります。言語数の違いというのは、そうした政治的な立場の違いからも生まれてきます。
このような事情があるために、言語学では、生まれて最初に習得する言語のことは、「母国語」とは呼ばずに、「母語」とか「第一言語」のように呼びます。日本の社会では、「母語」と「母国語」とがほとんど同じ意味で用いられていますが、このふたつが決して同一視できないことは、ここまでの説明で十分理解していただけることと思います。
「言語」と「国家」、また「言語」と「政治」との関係はきわめて微妙であり、場合によっては深刻な紛争の原因になっていることもあります。現代の複雑な社会に生きるわれわれは、こういう問題について十分に敏感であってしかるべきでしょう。