「稲妻」は「いなずま」ですか、それとも「いなづま」ですか。漢字を見ると「いなづま」が正しいように思えますが。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』17号(2004、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
現代日本語のほとんどの方言では「ず」と「づ」、「じ」と「ぢ」は完全に同音です。したがって表記の際には、原則として「ず」「じ」を使用し、「づ」「ぢ」は使わないことになっています。昭和61(1986)年の「現代仮名遣い」に関する内閣告示第1号によれば、「稲妻」もこの原則に従って「いなずま」と書く、とされています。
一方、「つ」「ち」で始まる語の前に別の語が付いて新しい語を作る際、「連濁」(2語目の最初の清音が濁音化すること)が起こる場合には、元の語の表記を生かし「づ」「ぢ」を使用することになっています。例えば、
「一本」+「釣り(つり)」→「いっぽんづり」
「鼻」+「血(ち)」→「はなぢ」
などがその例です。
「稲妻」は、語源を考えるとこれらと同類であると言えなくもありません。日本には古来、「稲と雷とが交わることで稲穂が実る」という考え方がありました。文字どおり、「稲」の「妻」だから「いなづま」なのです。そうすると「いなづま」と書いた方がいいという考え方も、理由がないことではありません。
では、「一本釣り」は「いっぽんづり」なのに、「稲妻」は「いなずま」となっているのはなぜでしょうか。それは、現代日本語として「語構成」がどの程度はっきりしているか、という判断によります。
「一本釣り」は「一本ずつ釣ること」、「鼻血」は「鼻から出る血」のことです。ですから「いっぽんづり」を「いっぽん + つり」に、「はなぢ」を「はな + ち」に分解することは非常にたやすいことです。このような語の場合、「語構成」は極めて明瞭である、ということができます。
一方「稲妻」はどうでしょう。「稲と雷とが交わることで稲穂が実る」という古い信仰は、現代の日本人にとって決してなじみの深いものではありません。特別な知識がなければ、「稲妻」の「稲」と「妻」がどういう関係にあるのか、非常に分かりにくいのではないでしょうか。こういう場合、「いね + つま」という語構成は必ずしも明瞭であるとはいえません。そこでこれ全体で不可分の1 語と考え、冒頭に挙げた原則どおり「ず」を用いて「いなずま」と表記することにしているのです。
しかしこのようにいうと、「いや、自分にとって『稲妻』が『いね + つま』であることは、漢字表記からいって明らかなことで、『いなずま』という表記にはどうしても違和感がある」という反論もあることでしょう。
それはまさにもっともな反論です。そもそも、「語構成が明瞭かどうか」という判断自体幅のあるものですので、「明瞭か不明瞭か」という一線がきっちりと引けるものではありません。「語源」をどの程度重視すべきか、という考え方も、人によって大きく異なることでしょう。
このように、「いなずま」・「いなづま」、いずれの表記にもそれなりの理があり、どちらがより正しいとはっきり言い切れるものではありません。ことばの世界にこのようなことは、実はときどきあるのです。
実は内閣告示でも、「稲妻」は「いなずま」と書くのを本則としながらも、「いなづま」と「書くこともできるものとする」、と明記されています。このような語にはほかに、「さかずき ← 酒(さけ) + 杯(つき)」「くんずほぐれつ ← くみつほぐれつ」などがあります。
(宇佐美 洋)